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2015年3月29日 (日)

西堂行人氏ステートメント

2011年、2013年にサブテレニアンで上演された「キル兄にゃとU子さん」が、3月13日〜15日、ドイツ・ミュンヘンのi-campで、劇団EnGawaによって、ドイツ語で上演されました。

14日にはアフタートークが行われ、サブテレニアンから赤井康弘が参加しました。
その際、西堂行人氏(演劇評論家)によって発言されたステートメントを掲載します。実際の発言は英語で行われました。
3・11震災による惨事へのAICT日本センターからのメッセージ
 西堂行人(演劇評論家・AICT日本センター会長)
 
3月11日午後2時46分、マグニチュード9の大地震が東北地方を中心に東日本を襲った。この地震に連動して引き起された大津波は地域住民たちに巨大な被害を及ぼした。災害は災害を呼ぶ。この地にあった福島原発施設の一部が損傷し、放射能漏れの危機が生じることに なった。死者、行方不明者を合わせて2万9千名を超え、避難を余儀なくされた地域住民は20万人とも言われている。(2011年3月31日現在)、
 この未曾有の災害は日本列島に大きな衝撃を与えた。首都圏は交通機関が止り、電力不足により都市機能の一部が失われた。この日を境に、状況は一変した。街々から灯りが消え、その暗さと被災地を襲う寒さは、われわれの身も心も一層凍らせた。廃墟と化した町と、見えない放射能に怯える日本人。避難生活による心の病もこれから深刻さを増すだろう。
震災後、海外の多くの友人たちから見舞いの言葉や激励のメッセージをいただいた。世界の中で決して孤立しないようにとの温かい声に心から感謝したい。  
われわれ演劇に関わる者たち、とりわけ批評家たちはこの大惨事を前にしていったい何ができるだろう。日々自問を繰り返し、出口のない迷路の中で、ひたすら考え続けている。
東京に集まる批評家たちは、幸いにして、直接被害を受けた者はいなかった。地震の揺れによって部屋が破壊された者は多いが、東北地方の被災者に比べれば、まだしも安定した暮らしを送っている。だが復興の見通しの暗さ、放射能漏れによる生命体の危機は、演劇にとっても差し迫った問題だ。
わたしは16年前のことを思い出す。1995年1月17日、西日本を襲った阪神・淡路大震災は、6434人の死者を出し、神戸という日本有数の大都市を壊滅状態に陥れた。この地方に住む演劇人で被災した者も少なくなかった。だがここから多くの優れた舞台が生まれたことは、このさい想い起こしておきたい。
その一つはジョシュア・ソボル作、栗山民也演出の『GHETTO/ゲットー』だ。この舞台は強制収容所に入れられたユダヤ人が、演劇を通して人間の尊厳を守る闘いをテーマにしたものである。この舞台を制作したのが他ならぬ神戸の劇場だった。衣食住もままならぬ被災状況下の街で、果たして演劇を上演することにどんな意味があるのだろう。そう自問しながら、演劇人は舞台に向かったことは想像に難くない。だが結果として、この舞台は危機的状況を追い風としてめざましい成果を挙げ、その年の演劇賞を総ナメにした。
もう一つは、震災の前日、東京のスパイラルホールで楽日を迎えた、京都のダムタイプが上演した『S/N』である。世界の前衛アートシーンで高い評価を得た作品だ。
『S/N』とはAIDSに感染した故・古橋悌二が自らの被患によって見えてきた社会の中に存在する偏見と差別を扱った作品で、古橋自身、自ら舞台に立った。このパフォーマンスは、死を目前にしたアーティストが自らの生死を賭けて、「芸術は可能か」を問うものだった。
『GHETTO/ゲットー』が震災後に演劇はどうあるべきかを実践したとすれば、『S/N』はその前夜に、極限状況にさいして演劇/芸術で何が可能かを身を以って問いかけるものだった。その他にも、果たして震災という非常事態にさいして、自分たちの演劇は無力ではないかと率直な意見を述べる者もいたし、さっそく被災地に赴き、子供たちの心の癒しにむけてボランティア活動に勤しむ劇団もあった。あるいは地震に対する身体感覚から、従来の劇言語を捉え返そうとする劇作家もいた。数多くの思考、言説化の試みがなされたことは、震災がもたらした逆説的な成果でもあった。
演劇が必要とされる時とは、非常時においてこそではないか。演劇とはそもそも死と向き合う表現であり、極限状況をつねに想定しているのか否かが、演劇に関わる者の宿命である。
だが今回の非常事態に対して、多くの劇場は数日間から1ヵ月近く閉鎖を決定し、休演、中止が相次いだ。その理由としては、建築上の安全性確保の困難さ、停電が実施される中、電力確保が難しいこと、さらにはこんな時期にとても芝居など演じられないとした、純粋に芸術上の問題まで、実に様々だ。
たしかに多くの死傷者を出し、今後の見通しが立たない状況下にあって、演劇をやるべきか、否か。この議論に正解はない。各現場にそれぞれの事情があり、その判断は個々に委ねられよう。だが、演劇はもともとどういう力を持った表現なのか、少なくともこれは誰もが考えることができる。
3月11日当夜、自前のスタジオを持つある小劇団は、交通網が遮断された中、駆けつけたわずか21人の観客の前で芝居を行なった(客席数70)。この時の観客は、舞台を強く支える支援者でもあった。こうした舞台はオルタナティヴな場でこそ成立可能だった。
東京都の公共劇場の芸術監督を務める野田秀樹は、上演中だった『南へ』を休演した。この舞台は火山の爆発と地震の予感が渦巻くなかで、これからの日本はどうあるのかを問う作品だった。彼は公演中止についてこう発言している。
「4日間、劇場の灯を消しました。私は、その間、本当に居心地悪く暮らしました。日頃『ろうそく一本あれば、どんな時でもやれる。それが演劇だ』と言っていたからです。現実にはそのろうそく一本も危険だと思いこみ、自分の首をしめるような自主規制下におかれているような気がします」(朝日新聞 3月21日)
この言葉から、戦火のサラエヴォでローソクの下で『ゴドーを待ちながら』を上演したスーザン・ソンタグのことを想起した。どんな劣悪な状況下であろうとも、そこに人がいて、場所が確保できれば、演劇はできる。人は俳優となり、場所は劇場となり、そしてそこに立ち会う人たちは観客となるからだ。今なお、「サラエヴォのゴドー」は可能なのか。世界中を覆うグローバリゼーション下での演劇や芸術は、「自己規制」して活動の縮小を余儀なくされ、過剰なセキュリティの前で、萎縮した表現に向かいがちである。この「同調圧力」を強いられる状況に、果たして演劇人は抵抗することができるのか。震災という非常事態の状況は、演劇が置かれている現在を浮上させる。
劇場とは、人が集まり、議論し、思考が交換される場だ。それが今の日本にもっとも必要不可欠なものだろう。避難所は一時的に「劇場」と化す。いや劇場にはそもそも「避難所」=アジールという役割があるのではないか。批評家のできることは、こうした劇場をフォーラムとして組織し、多くの言葉を引き出して、演劇で何が可能かの言説化をはかることだ。
われわれ日本人は決して豊かな資源や豊富な原料に恵まれているわけではない。ただ四季折々の季節感に恵まれ、自然と共生しながら、微妙な時間の淡いを微細な感受性で抱き止めてきた。その上で、個々では小さく弱い人間が力を合わせ、集団的団結力を通して社会=コミュニティを形成してきた。それは演劇という文化の成り立ちと相似形である。
今回の大震災でもう一つ大きな懸念は、人間の未来を破壊する放射能の危機だ。これは日本列島という範囲を超え、近隣のアジア諸国や世界へ広がる問題を突きつける。さらには人類の未来のエネルギー問題をどう考えるか。具体的には子孫という未来を脅かす。チェルノブイリの原発事故は今から25年前の1986年のことだった。あの時、世界中の人々が、「人類の存亡は本当に可能なのか?」という大きな問いの前に立たされた。その問いが再び眼前に突きつけられた。
われわれ日本人は時間をかけて粘り強く復興するだろう。先日訪れた神戸は、16年後の現在、街自体はほぼ完全に復元した。もちろん、心の傷はそう簡単に消えはしないとしても、今回のような惨事に対して、神戸の経験は貴重な教訓と多くの示唆に富む提言が引き出せるだろう。演劇は応急措置には役立たないけれど、漢方薬のようにじわじわと効いてくるものだ。
3月11日の夜、都内の片隅で行なわれた小さな芝居に駆けつけたわずか21名の観客は、おそらく演劇という「行為」を通じて、いったいどう生きていけばいいのか、演劇で何が可能で何が不可能なのかを、ひたすら考え続けていたに違いない。
それが演劇に関わり、人々が集まる広場での想像力のあり方だろう。演劇や芸術が可能だということを信じて。
 今回は、作者の大信ペリカン氏が所用で来られませんので、作者に替わって、わたしがこの公演の成り立ちについて説明いたします。
この作品は、2011年3月11日に強い地震に見舞われた東北地方の福島に在住している劇作家大信氏が震災直後に書いたもので、その年の六月に東京で初演されました。大信氏は、震災に遭遇して、その時、その場で考えたこと、感じたことを整理するのではなく、いわば3・11という「今」に向き合うことに主眼があったと述べています。地震の余波が消えやらぬ中で、いったい何が起こったのかを整理するだけの心の余裕がなかったというのが真相でしょう。その結果、生々しいドキュメントとして、震災が「記録」されたのです。
こんな非常事態に直面している時に、戯曲執筆したり、上演などやっていいのか――そう自問としても不思議ではありません。それどころか、目の前にいる被災者に対して、自らの表現活動など何になるのか。そう考える者が多数でしょう。
にもかかわらず、大信氏は作品を書き、発表しました。彼らはすでに東京で上演する予定があり、「上演した」というより、「中止にしなかった」と言った方が適切かもしれません。おそらく劇作家はその時、非常時に際して、演劇の「使命」を考えていたのではないかと思います。大信氏はこうコメントを寄せていただきました。
「当初から決まっていた初演の稽古開始時期と、あの震災はほぼ同時期でした。当初、チェーホフの『ねむい』という短編を下敷きにした作品を創作するはずだった私たちは、その必要性も寄る辺も全て失ったような感覚に陥りました。つまり、こんな時期に創作物を発表することに対する意味を失ったのです。それでも私たちは予定していた初日に、なにかしらの創作物を発表することに決めました。それを私は演劇人としての”業”として捉えたのですが、あの当時福島を覆ったとまどいの空気感を具現化すること、それが私たちのやるべきことであるような気がしたのです。そこには、帝政ロシア末期の空気感を記したチェーホフの後押しがあったのかもしれません。」
この舞台を東京で拝見した後、わたしは大信氏とこんな話をしました。
《演劇には「記録する」という役割がある。そこで起こった事柄を、そこに居合わせなかった人たちに伝える。つまり当事者は、非当事者に事実を伝える責務がある。ただし、その内容に良し悪しの判断を与えることは不可能だ。何が起こり、何が自分や人びとの心の中で生じたのか、それを出来るだけ正確に伝える役割が、演劇にはあるのではないか。
例えば、ギリシア悲劇に『トロイアの女たち』という作品があります。ギリシア軍がトロイア国を滅ぼし、トロイアの男たちを虐殺し、女たちを奴隷として連れ帰る国の話です。まさに戦争という暴力を記したものです。見方によっては、「ギリシアの恥」を同じギリシア人の劇詩人エウリピデスは後世に残した、とも言えます。
劇詩人は自国の恥辱を歴史として残した。それ故、われわれはギリシア人の暴力とトロイア人の悲劇を今日知ることが出来るのです。大信さんにも是非、福島で起こったこと、地震による災害、のみならず、原発の恐ろしさを後世に伝えて欲しいと思う。》
福島の原発事故は今なお修復されているわけではありません。にもかかわらず、安倍首相は五輪誘致のさい、「原発は完全にコントロールされている」と明言しました。さらに今、海外に向けて、原発の技術を売り出す計画を彼は推進しています。これはとても恥ずかしいことだとわたしは考えます。唯一の「被爆国」が、放射能の平和利用という名目の「原発」を、現在人類にもっとも差し迫った危険なオモチャを、売り出すことをあってはならないのです。これからの人類の益を考えれば、日本の国益など、はるかに小さいものでしょう。
わたしたちは『キル兄にゃとU子さん』という画期的な作品を媒介にすることで、人間の未来や平和について語ることが可能です。演劇を通して、どういう対話が可能なのか。そういう問題を、ここで提起したいと思います。
(2015年3月14日、ドイツ・ミュンヘン i-campにて)_mg_1257

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