『キル兄にゃとU子さん』アフタートーク2013/12/5(木) 渡辺亮史氏(劇団渡辺)
ゲスト 渡辺亮史氏(劇団渡辺)×赤井康弘(サブテレニアン・サイマル演劇団)
赤井 本日はご来場いただきありがとうございました。この作品は2011年6月に福島県の劇団満塁鳥王一座がサブテレニアンで初演した作品です。上演することは前から決まっていたのですが、地震がおきて、そもそも公演ができるのかというところから彼らは作品を作りました。そして、もともと公演を予定していた福島県内の劇場は損傷して公演が打てなくなったため、結果的に東京が初演となったのです。
当時は芝居どころではない状況で、普段稽古場にしているところが避難所になったり、稽古のために集まっても、台本があったとして、「そんなものを演じることにどれだけの意味があるのか」と問うているような状況でした。
僕が5月に稽古の見学に行ったときは、大信さんが役者にインタビューをしていました。「地震の時何をしていたか」とか、「地震の後2ヶ月の間どうしていたか」「地震についてどう思っているか」といったことを。福島市は原子力発電所の事故もあり、一見街は穏やかに見えるけれども、それぞれ不安を抱えているように見えました。
渡辺 僕は2011年の満塁鳥王一座の初演をサブテレニアンで見ています。地震がおきた時に何か出来ることはないのかと思い、演出家の仲間で集まって一緒に被災地に行ったんです。出来たことというと、人に会って話をきいてくることくらいだったのですが、その時に大信ペリカンさんにもお会いしました。それで、震災のことを芝居で取り上げると知って観に行ったのですが、僕はひねくれた見方をするので、被災した状況を「辛い」だとか「淋しい」だとか、原発の是非を申し上げるような芝居だったら嫌だな、と思っていたんです。そもそも「今、演劇をやっていていいのか」と問い直す人も多いような状況だったので、体験の伝え方に距離感を保てないと嫌だな、と。ところがありのままというか、結論があるような芝居ではなく、「とにかく今、大変な衝撃を受けて、それでも表現するんだ」という覚悟が心に残るような公演でした。そこから再演に至った経緯というのはどのようなものだったのですか?
赤井 二つくらい理由があります。まず、この作品が震災後だけではなく、この先もずっと上演する価値のあるものであろうと考えました。チラシにあるキャッチコピー「我々は未来の被災者である」の通り、地震も原発事故も、どこでもおこり得ることです。何年経ってもそれは変わりません。
もう一つは、ここで描かれていることは直接的には震災をモチーフにした作品ですが、震災に限らず、個人と政治の関わりだとか、個人が政治に関わった時の戸惑いだとか、そういうことに言及できる芝居だと思ったのです。そして、福島、東京だけでなく、日本中、さらには海外のどこでも上演できる作品だと思ったのです。この二点があったので、ちょうど知り合ったクォン・ナヨンに出演を依頼しました。今回はたまたま日本人と韓国人で上演しましたが、どこの国の人でも上演できると思います。初演は被災した当事者でもある福島の俳優が演じることで、ドキュメント的な衝撃ももたらしました。今回は東京と韓国の俳優が演じましたが、それには必然性があるわけではないんです。
初演の時にはなかったキャラクターは1970年の女です。大阪万博をモチーフにしたキャラクターで、大阪万博は、その開幕式の日に敦賀原発が稼働を始めているんです。まさに大阪万博に電気を送っていたのは敦賀原発で、原発の象徴的なイベントだったんです。
渡辺 赤井さんがおっしゃるように、初演は今を切り取っているドキュメント性が衝撃的でしたが、今回の上演では普遍性が加わったと思いました。どうしても僕たちはあの時の熱や衝撃を忘れてしまいがちですが、あの時の感じが掘り起こされた感じがしました。ナヨンさんや他の役者さんと作品を作っていく中で、作業として難しかったところなどを聞かせてもらえますか?
赤井 僕は福島出身なので関係が無いわけではないですが、ふだん東京に住んでいるし、他の役者も住んでいるのは東京と韓国で当事者ではない。芝居もU子さんを探している人の話なので被災者ではないのですが、探しているという当事者ではあるわけです。芝居は全て当事者でないものが当事者のふりをするわけですが、どうしても当事者のふりをして演じているうちに熱や感情が上がってきたりするので、そこに対しては冷静に演じなくてはいけないと思いました。初演した俳優に見てもらうのが、楽しみでもあり、何よりもこわいことでもありました。「この芝居を見た時に何を思うだろう」と。そこに対してきちんと向き合いたいと思い稽古に臨みました。
渡辺 震災のことを伝えるのは難しいけれども忘れてはいけないし、この芝居が再演を重ねて当事者の手から離れていっても、ここにはあの時の衝撃が保存されているのですね。この作品を紹介するのは難しいと思っていましたが、当事者から離れた普遍性が付け加わっても当時に作ったシーンは残っている、タイムカプセルのような作品だと思いました。
ここで上演した理由や静岡のお客様に伝えたいこと、アトリエみるめの感想など聞かせていただけますか。
赤井 静岡は地震や原発に対してはセンシブルな場所であるということが、ここで上演したいと思った理由の一つです。 この作品はいろんなところで上演して最終的に僕たちの手を離れて、世界中の人に見てもらえたら嬉しいと思っているのです。芝居で結論を提示するわけではないですが、頭に残ったり、芝居を見たことで何かを主体的に選択できるようになってくれたらよいな、と思います。アトリエみるめはワイルドな場所だな、と思いました(笑)。タッパもあって自由度が高く、よい劇場で上演することができてよかったです。
« 『キル兄にゃとU子さん』アフタートーク2013/12/2(月) 西堂行人氏(演劇評論家) | トップページ | Ammo「Lucifer」稽古場レポート01 »
この記事へのコメントは終了しました。
« 『キル兄にゃとU子さん』アフタートーク2013/12/2(月) 西堂行人氏(演劇評論家) | トップページ | Ammo「Lucifer」稽古場レポート01 »
コメント