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2012年3月

2012年3月20日 (火)

スポンジ『魚のいない水槽』レポ07

7日目

昨日の通しをみて冒頭からシーンを修正をしながら稽古を進める。今回と云うか毎度であろう僕の作品は弱い人間が主人公になる。今回も例外ではなく弱い人間が主人公である。弱いと云うのは肉体的ではなく精神的に弱い人間と云うことだ。主人公をやって貰う役者には事ある毎に男らしさを排除して貰う。駄目出しも男らしさを消してください。これをひたすら繰り返す。表面的には頼れる様に見えてそれは自己防衛だったりする人間。そんな人間を浮かび上がらせたい。過去に囚われてる人間はどんなものか知りたい。その欲求なのかもしれない。稽古も予定通りに進むことはまずない。不思議なもので背景の埋まってない役者は台詞にも説得力がない。その部分をひたすら説明する。安心をしたがる 役者がいる。台詞も決まっているし、シーンの方向性だって読めば分かる。だが安心をしたとたん芝居がつまらなくなり芝居も流れてしまう。そうすると観るべきものが何もなくなってただの風景を見ているみたいになる。感情がちゃんと動いて、引っかかりが出来た時は、なにをやっても面白いしスリリングだ。だから役者には極力安心をさせないように心がけるようにしている。これはあくまで好みだと思うのだが予定通り安心して進む物語よりなんだかよく分からない物体を見るほうが好きだからだ。それは僕が書き手だと云う事も大きく作用していると思う。夜、重要な役の役者とファミリーレストランで役作りのディスカッションを行う。兎に角、背景を深く追求することによって役の厚みや説得力が変わ るのでこのように台詞やシーン以外のことも話すのはとても重要だと思う。

スポンジ『魚のいない水槽』レポ06

6日目

通し稽古。スタッフも揃っている。当然と言うべきか、予想通りというか、初めての通しと云うこともあり、皆ガチガチに緊張していた。そのため、稽古でうまくいっていたテンポの良い台詞も、ところどころに間が空き、ペースが崩れているのが顕著に分かる。
これは仕方ないと思う。むしろ、必要な課程だとも思う。
役者自身が、気持ちいいテンポと、気持ち悪いテンポ、そのどちらも知ることが大事なんだと思う。
気持ち悪いなと思うことで、自分なりの埋め方を考えていくようになるのだと考える。
最初から完璧を求めるコトはないんだと思う。稽古終了後、役者には個別に駄目出しをする。駄目出しと云うのは字の如く駄目な部分を役者に伝える作業なのだが、僕はそれを全体で行わず個別に駄目を出すと云うやり方にしている。それは役と云うのは1人、1人役割が違うしこれを全員で共有する必要がないと思うからだ。以前は全体で駄目出しをしていた時期もあったのだが、やはり人数が多いと一方的にこちらが伝えるだけになってしまいがちになる。逆に駄目出しを個別でやる分、時間も掛かるのだが、話しをしていくうちにその役者が何故、そうやったかを知ることも出来るしもう1つ深い事を話すことが出来る。大事なのは、その役の背景の部分でそれをより深い所まで話すことによって役も 立体的になる。勿論、二人の掛け合いのテンポとかテクニカルな部分はその二人に一緒に伝えるし、返し稽古で出来る所はその際に伝える。そのやり方の方が今の僕の作品にはあっているように思える。
今日通してみて改めて見えることも多々あった。演出プランを変えるシーンなど発見でき収穫を得ることが出来きた。その部分はメモをして自宅へ持ち帰り再度、練る事にする。

スポンジ『魚のいない水槽』レポ05

5日目

昨日、最後のシーンまで渡したせいなのか、不思議なもので芝居が後半に完全に引っ張られてしまった。それを排除する作業が必要になる。軽いところは軽く。重いところは重く。緊張と緩和が大事なんだと思う。それを再度、役者に伝えて稽古を進める。後半の為のシーンでなく結果、そこに辿りつくくらいで丁度良い。今回、一番重要だと思うシーンを集中的に稽古する。僕の考えでは台詞なんてどうでも良くてその人物の生き様が見えれば良い。ただそれだけだ。だからどうしても背景が大事になり、毎日のように役者にそれを伝える作業。地味だがそれが幹となり役に厚みが出来る。僕は演出をする際にはテーブルに座ってではなく極力、役者のところまで行き話をするように心がけている。今まで 僕が経験していた演出家の方々は大体テーブルから伝えてくださる方が多かったのだが、ちょこまか動いて演出する人間がいても良いと思うし、一緒に作品を作りたいと思う想いがあるのも確かでこの方法にしている。特に今日は重いシーンの稽古だったので、一歩間違えればナルシステックに見えてしまう。それはどうしても避けたいので、役者にニュアンスなど細かく伝える。テンションをあげる。よく聞く言葉だと思うだが、これは凄く漠然としていて、そりゃあがってくれる事に越したことはないのだが、それを伝える作業。やはり背景。何故、彼(若しくは彼女)がそのような状態になったのか細かく伝える。そうするヒントを出すことによって役者が集中をしテンションもあがり違った演技になるのはみ ていて面白い。


スポンジ『魚のいない水槽』レポ04

4日目

脱稿した台本を役者に渡す。色々な作家がいると思うが、僕は役者を見ながらでしか書いた事がない。その分、毎回この時期に脱稿する事が多いのだが、これは役者にとっても大変不安だと思う。先の分からない物語に向かって演技をする。勿論、僕の方は作家でもあるから全部ではないにしろ物語の終わりが分かったりする。ただ書いている過程でそれが大きく変わることもある。だから皆、稽古では分からない先に向かって演技をしていくのだ。先が分かると安心する役者もいるのも分かる。ただ人生はどうだろと考える。先の事はこうしたいと思うことはあっても、実際先は分からないしそうならない事だって多々ある。だから物語はスムーズでなくても良い。いびつな事が面白かったりする。時には 思いもよらない感情が生まれたりもする。

本読みをして早速、段取りをつけていく作業。通常稽古では段取りを後回しにし、役者に遊んでもらうこともあるが、おおざっぱな段取りだけはとりあえず最初につける事が多い。
大体どの辺にいると見栄えが良いか、というコトを決めておくと後々楽というのもあり、また、この人とこの人との距離はこのくらいと立ち位置で自分と周りの距離感を知っておくと、その後も動きやすいからだ。
また段取りをつけていく最中にも役者とディスカッションをする。そすると書いている時には分からない発見があったりする。各役者の生理、距離が微妙に僕とは違うからだ。これを知ることが出来るのは作品を書いて演出できる特権だと思う。机の上で散々悩んで書いた台本が演出する際には邪魔になったりしてあっさり削ることもあるし、逆に追加をして台詞を足すことも出来る。もともと僕が役者をやっていたからと云うこともあり役者がよくみれば良いと云う所に毎回落ち着く。

スポンジ『魚のいない水槽』レポ03

3日目

サブテレニアンさんにお邪魔しまして早 3 日目。 実はスタッフ総見が結構迫っているので、本日は通しをお見せできるよう転換を作っていきます。
  僕らも然り、 ほとんどのお芝居には転換があります。これは作品にもよりましょうが、「暗転は極力避けたい」というのが僕の思いです。まぁこの辺りほ 同じ思いの人って多いと思います。やはり暗転 は 多ければ多いほど観客の気持ちというか想像する思考が途切れてしまいますし 、「このシーンはここで終わりました」と強すぎる提示をしてしまっているようにも思え、作品の幅を狭めてしまう要素にもなり得ます。シチュエイションが変わったというのは役者の演技ですとか会話の流れで、さらに照明や音響といった各種舞台効果を持ってすれば観客に伝えることは充分できます。逆にこの『転換』という一瞬 をスタイリッシュに決めることができれば作品もグンと引き締まりますし、実は大きな可能性を秘めたシーンになり得るとも考えます。なんにしても、「作品にマッチした転換を見つける」というのが、作品の完成度を引き上げるキーであるとも言うことができましょう 。
 それではと本日の模様をお伝えしますと、僕らは舞台上での嘘というものを極力排したいという方針なので小道具はたくさん使います。シーンによってはたくさんのものを散乱させることもありますので、転換が大変なシーンもあったりします。各シーンとシーンの間を繫ぐ、スタイリッシュ且つ観客の思考をスムーズに導くブリッジとしてベストなものを探す。なかなか骨の折れる作業ですね。

2012年3月19日 (月)

スポンジ『魚のいない水槽』レポ02

2日目

演劇において人物・シーンを見せていくとき、発散にはエネルギーと熱量が要求されます。それによってその人物の内面をさらけ出す。というのが僕の好きな手法です。

 エネルギーを発散するというのは静かな演劇ですとか新劇ですとか、何かを演じる上で必ず伴うものですが、観客(というか人間)の生理として熱量のあるひと・ものに目が行くわけです。逆に言えば、魅せるためには熱量が必要になるということですね。
 今回で言えば、ある人物が怒りを露わにするシーンがありまして、そこを演じる彼女は台本を読み叫んで発散するという方法を 一旦選択しました。確かにこれもひとつの方法であります。しかし台本 に沿ってその人物を運んでいくのに『生理』という壁が立ちはだかりました。そのシーンで言うなら、彼女は “しゃがみこむ ”ことができなかった。
 しかし、彼女は他の共演者の演技を通じてその『叫んで発散する』という選択に疑問を覚え、他の表現方法を模索し始めました。今の時点でまだ完成はしていません、しかしそこに “気づき ”が生まれたことだけは確かな事実です。ト書きの様に彼女は “しゃがみこみ ”ました。こうして書いてみると なんだかおかしな感じですが。 もちろんこれで終わりではありません。まだまだ見え方のバランスなど調整は必要です。
 イメージは もちろん役者に伝えますが確固たる プランを提示するタイプの演出家ではない僕としてはその俳優の『気づき』を頼りにしているところ があります。もちろん俳優が気がつけなければテクニカルな部分でサポートをすることはできます。ですが、 役者自身がが疑問を持 ち、 違った アプローチ を試みる。これを『気づき』と僕は読んでいます。 俳優が気づけば、僕も気づき、作品が広がる。この瞬間が 、作品が・もしくはその人物が一歩踏み出した 瞬間なんでしょうね。
 本日はそんな瞬間を目にしました。

2012年3月18日 (日)

スポンジ『魚のいない水槽』レポ01

サブテレニアンではスポンジさんが『魚のいない水槽』の稽古中です。
今日からその稽古場レポートをお送りします。まずは第一回目。

初めまして、『スポンジ』の主宰をしております中村 匡克と申します。この度サブテレニアンさんにお邪魔して、公演の集中稽古をさせていただいてます。
 本日は立込みが中心にもなりましたので、スポンジの作品についてですとか指針について述べたいと思います。
 例えば演劇において作り手が観客に “なにか ”を伝えたいのであれば、その人物に幅を持たせる必要があります。言葉ですとかで具体的に『提示』をすることは、簡単ではあります。しかしそれは演劇の本質から著しく外れている。この辺りは演劇における共通認識ということでよいかと思います。
 演劇とは観客に『想像』を促す芸術であるというのが僕の演劇への認識です。そうであるなら演劇はどうすれば観客の心を刺激することができましょうか。ひとつにそれは、作品に幅を持たせることかと考えます。あるすべてを提示せず、想像の余地を残す。この想像の余地の部分が作品の幅と言えましょう。これを設けることで観客は何かを感じ、思い、想像を促されます。それに伴いその人物の心情ですとかシーンの見えかたが広がり、あるいは僕が想像もしなかった新たなる視点が生まれることも、もしかすればあるかもしれません。
 ですので、僕の本においては説明的な台詞を極力少なくし、日常的な会話の中から観客に想像をさせるというのが常に念頭に置かれています。そういう構造にしてあるために俳優たちにも伝わりにくい部分はあります。正直 僕の本を読んで困惑した方もいらっしゃったかもしれません し、当然作品造りには大変な時間がかかります。
 なかなか意思疎通が上手くいかずストレスに思うことは正直あります。しかし、そうして役者たちとのディスカッションを踏まえ、舵をとりながら進めていくことでしか重厚な作品は生まれない。 不変であるこの事実が 頼りです。
 俳優たちは、言葉に頼らず本の中の人物の状況ですとか心情を表現せねばなりません。多数の観客の目の前で、身体ひとつを武器にです。何度も稽古したことをいつも新鮮に感じながら、且つ日々の稽古で積み上げてきたことを忘れてはならない。役者たちはこの矛盾を抱えなければならないのです。一瞬でも気を抜けば、感じるべき『新鮮さ』は失われ ます。常に『新鮮さ』を感じられる状態を維持することを、僕は “負担 ”という言葉で表現しています。
 さて、今回の『魚のいない水槽』という作品で、僕らは実際にあった事件を題材にした作品に挑みます。と云っても社会派ではありませんし、見せたいものはサスペンスでもなく、厭くまで人間ドラマです。
  “人間同士が持つ醜さやその滑稽な様を炙り出すようにじっくりと描き出す ”
という指針を普段 掲げている僕たちでありますが、デリケートな題材を扱うこととも重なりまして 役者たちには多大な“負担 ”がかかっていることと思い ます。そして残す一週間でどれだけのエネルギーを作品に注ぎこめるのか。まさに“正念場 ”です。

2012年3月16日 (金)

シアターガイド:東北発〜演劇が結ぶ人・絆/劇団満塁鳥王一座「キル兄にゃとU子さん」

2011年6月にサブテレニアンにて上演された劇団満塁鳥王一座『キル兄にゃとU子さん』(SENTIVAL2011参加)が、シアターガイド4月号の「東北発〜演劇が結ぶ人・絆」にて取り上げられました。

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