震災前に考えていたこと
赤井 震災前から公演の企画はあったわけだけど、どんなことをやろうとしていたのか聞かせてくれる?
大信 震災前はチェーホフをやろうと思ってたんです。チェーホフの短編で『ねむい』という作品があって。田舎から出てきた女の子が靴屋で働いているんだけどひどくこき使われていて、さぼろうとすると親方に殴られちゃう。そんな過酷な条件の中で必死に働きながらもやっぱりねむいから寝ちゃう。そのときに、自分の過去を夢みるわけ。その夢の話なんかが短編に描かれていて、主人公の女の子の名前がワーリカというので、『ワーリカ』という芝居にしようと思ってた。
なんでそれにしようと思ったかというと、チェーホフがそれを書いたのがロシア革命の直前、王様の治めた時代にだんだん無理が出てきている頃で、同時期に始まった産業革命がちょうどロシアに来て、都市での労働者がロシアに生まれてきた頃だったんです。そういう時代背景が今の時代とシンクロするんじゃないかと思ったんですよね。
赤井 震災前だから、当時の話題になっていた
こというと・・・?
大信 時事的な話題ということではなく。
赤井 全体的な不況とか、そういうこと?
大信 行き詰まり感ですね。「産業革命からはじまった資本主義が行き詰っているよ」ていう。それで何回か稽古してたんだけど、また別のモチーフも生まれてきて。家が古本屋の男の子が古本を切りきざむので、街に古本の切れ端が降り積もっていくというモチーフなんですけど。
赤井 それはまだ震災前のことだよね?
大信 そう。その後4、5回稽古しただけで地震の混乱にまきこまれて・・・。地震の後一ヶ月間くらいは空白だった。4月11日の地震の時もまだばたばたしていたから。自分の奥さんと子供も避難したりしていたので、忙しくててなかなか芝居に集中できなかった。
赤井 実際、稽古をする場所もなかったんだよね?
大信 ええ。今も大変ですけど。でも地震が起きて、原発の事故が起きた時に、本を切り
きざんで街にばらまくという当初からあったイメージが、妙に今の原発事故とリンクしてしまった。この後稽古を重ねて変わっていくとは思うけど、それが自分の中ではしっくりきたというか、「同じイメージが重なるな」と思って。
赤井 震災前に考えていたことが使えなくなるのではなく、ここを軸にして持ってこれるということがあったんだね。
大信 そう。資本主義の行き詰まりも、ある種原発事故が象徴している気がして。なんていうか、公害の最たるものというか。
赤井 うん。
大信 そういう事件に実際自分が巻き込まれて右往左往したというところがあるので・・・。今もしているけど。そういう今の自分のリアクションとか気持ちを作品には投影していこうと思っている。
赤井 なるほど。
70年・大阪万博と原発
赤井 この前のサイマル演劇団の公演後のシンポジウムで、ペリカン君が「震災が起きて、70年から続いていたものが終わったように感じる。」としゃべってくれたけど、俺はそれが「70年代」の言い間違いじゃないかと思ったんだよね。70年、て生まれる前だよね?
大信 うん。生まれる5年前。
赤井 大信ペリカンの個人史ではないよね?
大信 70年というと、大阪万博のあった年なんです。大阪万博って関西の人にとってはとても大きなイベントだった。僕は兵庫県生まれで、家の人も近所の人もみんな行っていて、家には万博土産があったし。人生の中で、万博はただの情報ではなく、もっと肉薄した、身体的なものというか。
赤井 なるほどね。関東で言うと、東京タワーとか新幹線みたいに、その後ずっとあるものではないけれど、それと同じようなことなのかな。
大信 大阪では高度経済成長の象徴として、公園もふくめて、まさしくそこにあり続けた。地震と原発の事故が起きて、なぜ「70年が終わった」と感じたのかというと、大阪万博の原発館というパビリオンではじめて日本で原子力発電によって電気がついたという記憶があったから。調べると、福島の原発は70年11月に臨界が開始されている。
赤井 発電の前段階。
大信 ええ。万博は3月から9月だから、それより前。万博の開会式は「日本原子力発電敦賀第一号機から送られてきた電気で万博会場の灯がともりました。」とネットには出ていますね。関西電力は、『万博に原子の灯を』を合言葉に原子力発電を進めていたんですね。
赤井 当時にしたらすごい近未来だよね。電話もそうだけど、電気とか見えないじゃん。単に新しい技術というだけでなく。
大信 エネルギー量も多いし。
赤井 それが、「70年」。
大信 それで、原発の事故が起きたときに「70年が終わったな」という感じがあった。
赤井 70年代ではなく、70年という意味がわかった。
大信 70年代ということで言うと、キャンディーズのスーちゃんが亡くなり、ぴあが廃刊になり、拡大、成長という幻想が終わってしまったという実感がある。その最もシンボリックな事件が原発事故ということになるのかな。資本主義の終わりというモチーフが、原発の終わりという具体的なイメージに結びついたので、それを作品にしてみようと思っている。
赤井 万博、キャンディーズ、ぴあ、それ以外にはなにか思うところはある?
大信 ジローズの『戦争を知らない子供たち』が70年に発表されているんだけど、戦争を知らない子供たちが70年代にはいて、今はそのまた子供たちがいて、その子たちが何を知っているのかというと、震災だったり原発事故だったりするのかな、て思っている。
ダイアローグ/モノローグ
赤井 演出は探り探りやっているとは思うんだけど、役者の演技そのもののスタイル、もしくは脚本の構造上のスタイルで、演出の側から何か考えていることはある?
大信 そこはずっと5年くらい悩んでいるところで。今の稽古では普通に会話体で書いたテキストで稽古しているけど、以前に試していた手
法では、会話を全部やめて、モノローグだけで芝居を作ろうとして、何本か芝居をしたことがあるんです。その時から問題意識は一緒なんだけど、「結局会話なんてうそだろ?」ていうのがあって。要は何か言いたいことがあって、それを会話体にして書くのか、モノローグ体にするのかだけの話なんじゃないかと思っていて。
赤井 それは作家のテクニックとして?言いたいことがあって、それをストレートに言えばいいのに、Aさんが言いました、Bさんが言いました、という形式にしているという?
大信 そう。「Aさん、Bさんがいて、そこにCさんが入ってきて、Bさんがいなくなる」という、ただそれだけのことでしょ?ていうのが自分の中でひっかかっていて。それを信じるのも一つのやり方だと思うけど、自分は興味がもてなくなっている。
赤井 確かにそれは本質的なことではないものね。
大信 それがうまくガチッとはまったから演劇的に素晴らしいかというと、また違う道も当然あって。そうじゃない劇だって劇的にはできるはずだと思う。そういう会話劇は多くの人がうまくやっているし、「自分がうまくやったところでどうなの?」と。
赤井 上演するということは、Aさん、Bさん以外に神の見えざる手があるわけだから。
大信 そういうことですね。
「ぬるさ」
赤井 原発の反対デモとか、東京で行われている復興のイベントに対して、福島に住んでいる側から見て何か感じることはある?
大信 僕らは被災しているけど、それでも、亡くなった人の気持ちは分からない。被災者だけどそこは共有できない。僕らにも断絶はある。亡くなった人が一番割りを被っている人で、次に家を追われた人たちで。僕が住んでいたところも、緊急時避難準備区域になって、今は仕事の都合もあってこうして福島市に住んでいるわけですけど。
赤井 今日、原町の萱浜に行ってきて、小高い丘に一軒だけ残っている家の前にある掲示板を見たら「連絡先請う」などの安否情報が書いてあった。それを見たときに、彼らにとっては揺れが止まっただけで、決して「震災後」ではないんだ、と改めて思った。そういう人たちに「復興イベントに来ませんか」など、口が割けても言えないと思った。
大信 その人たちに「何かしたい」と思った時に、瓦礫を片付けるとか、募金をするとか、それくらいしかないんですよね。復興のために行う文化的なことって「そういう段階じゃない」て言われることもあるけど、そういう段階なんていつまでたっても来ないと思う。ただ、自分にとっては芝居を見ることは心の回復になる。被災者という一般的な集合体はいないので、個人個人に対する働きかけという意味では、いろんなやり方があってもいいと思う。断絶はあるけど、都内で行われるような復興イベントを「能天気なもんだな」とは思わない。「何かしたい」という思いの表れだと思うから。
赤井 福島で生活をして芝居をしていると、被災もしているし大変だとおもうけど、あえ
て芝居をすることにした、その選択にはなにか意味はある?
大信 震災後、しばらくは正直言って芝居のことは忘れていたんですけど、どうするか聞かれた時は「生き残ってよかった」という気持ちが大きくて。「ああ、助かった」と思ったから何でもできるような気がした。「死んだわけじゃないからやれるだろう」という。
赤井 俺は東京にいるから被災はしていないけど、有事が起きた時に改めて思ったのは「今やらなくていつやるんだ。」ということだったんだよね。有事を起こすために芝居をしているつもりだから。「今だからこそ前と同じことをやらないとい
けない。」と。ペリカン君はどう思う?
大信 そうですね。僕の過去の作品のテーマとしては「終わりなき日常」とか(笑)、そんなところで生きる人間や閉塞感を描こうとしていたところがあったけど。今は「閉塞感破られちゃったよ」って。そんな状況になったときに「俺もろいな」と思った感覚はある。震災が起きる前は「ぬるさ」みたいなのを他の芝居を見ても感じるところがあったんだけど、こういう状況になったときに「ああ、自分もぬるかったのかもしれないな」と思った。そういう「ぬるさあっての芝居」というか、「たしなみ」みたいな。必要だからではなく、余裕があるから芝居なんか見ている、みたいなぬるいポジションに自分もいたのかな、とちょっと反省している。
赤井 作品を作るときも、無意識にそのポジションで作っていたのではないかということ?
大信 震災前は、そのぬるさに対抗して、パンチの効いた表現というか、価値観をゆさぶる芝居をしたいと思ってた。「自分にそんなことできるのか?」とは思っているけど。今は地震もあって、気乗りがしないところもある。そこまで自分を強く持てないというか。
そういう人は多いと思う。
赤井 日本で芝居をする人たちに?
大信 いえ、例えば被災した演劇人たち。出てくれる役者も、奥さんも。俺の周りの人たちはそんなに元気ない。
赤井 俺は「もっと芝居すればいいのに」と思うんだけど。
大信 それは多分揺れてないからですよ。いや、東京も揺れてるけど。ここにいると心折れるところはある。
赤井 そこは絶対にわからないところで。一緒に心折れてしまうわけにはいかないので、俺は「芝居しようよ」と言いたい。
大信 僕も「折れてる場合じゃない」と思いながらやっている。だからこそやらなきゃいけないというか。福島も原発のイメージがついちゃったし、だからこそ福島から発信していきたい。
(2011年5月22日 福島市内、大信氏の自宅にて)
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