2025年11月11日 (火)

『振り向いた水平線上から帰るべき陸地が消えた時、人ははじめて未知の自由を得る。―― 「抵抗の詩人リーディング2 帰郷ノート」に寄せて』/ 平岡希望(劇評家/ライター)

「樹の幹の内部をくりぬき、スリット(細長い切り口)を刻み、やはり木製のバチで太鼓のように叩く。叩くわずかな位置のちがいで、樹の胎内をくぐり抜けて響く音程や音色は微妙な変異をみせる。おそらくは、汀に流れ着いた、すでになかば空洞化した大きな流木を水平線に向かってそのまま叩くことで異界の声を聴こうとした人間の原初的な身振りが、こうした楽器を製作することになった無数の褐色の手の背後に隠れている思考と肉体の記憶なのだろう。(……)それはまさに群島の楽器だった。」
(今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社, p.436)


 凪いだ夜の海のように墨色の舞台中央、やや下手前寄りに転がったスツールは原初的なスリット・ドラム、あるいはスリット・ゴングみたいだ。その傍らに佇んでいるのは葉月で、彼女の背後、足元、そして上手の壁には赤緑オレンジのテープが5本、流れ星のごとく走っているが、そこに水平線を引きなおすかのように、田村が下手から上手角へと進む。奥の壁と葉月に挟まれた “水路” を切り裂く彼が掲げた右腕は、帆のようでもあり、


「ローマ軍がエルサレムの市を占領したとき、剣によって命果てることを悟った大司教は、聖所の鍵を神に返しておきたいと願った。彼が鍵束を天にむかって投げると、神の手がそれを受けとめた。」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス, アドルフォ・ビオイ=カサーレス 著, 柳瀬尚紀 訳『ボルヘス怪奇譚集』河出文庫, p.86)


鍵束を天に投げ返すようでもあって、その航路は壁の赤いテープと鋭角を成す。下手から上手角へ進む田村をいざなう風のように、


金子:
そしてそこで、疲れを知らぬある思想の香気に育まれて、私は風を養っていた、私は怪物どもを解き放っていた、(……)私が常にもっている、キジバトとサヴァンナの クローヴァーの流れが昇ってくるのを聞いていた。
(エメ・セゼール 著, 砂野幸稔 訳「帰郷ノート」『帰郷ノート/植民地主義論』平凡社ライブラリー, pp.27-28。以降、『帰郷ノート』についてはページ数のみを記載する)


最前から流れていたのは金子の声だ。彼の「キジバト」とともに羽を広げるように葉月が開いた台本、そのえぐれた輪郭は入江みたいで、


葉月:
暁の果てに、脆い入江から芽生える、腹を空かした アンティル諸島、疱瘡であばただらけのアンティル諸島、 アルコールに爆砕され、この湾の泥の中に座礁し、この不吉に座礁した町の埃の中に座礁したアンティル諸島。
(p.28)


葉月の声の谺(エコー)として、上手から田村の「アンティル諸島…?」というつぶやきが重なる。


「グリッサンはここで、群島における声の運搬者が、『物語の混淆』を維持しながら進められる新しい伝承の回路の創造であり、そこで語り部から語り部へと継承される物語が、『谺(エコー)』の音響的な機能を宿していることを語る。そして自らが谺をうみだす反響板であるかぎり、すでに権威的に語る『主体』の名前はなかば消滅する。
(……)
 ここでいう『匿名の戦略』とは、すなわち集団に統一的な『声』を与えるための方法論である。集団が共有する心性が、ひとつの響きを与えられ、語り部のなかに谺するのである。(……)この『声を与え』『声を谺させる』者としての語り部の集合的な立場は、現代のカリブ海の詩人たちを突き動かす、啓示的な真実だった。」
(『群島-世界論』p.184)


 そもそも『帰郷ノート』において、詩世界の産声として発せられた「暁の果てに……」(p.27)は、残響のごとく徐々に遠ざかりながらも、


「夜のダ・カポ
ダ・カポのダ・カポ
噴火のダ・カポ」
(高柳重信 作, 小澤實 選『近現代俳句』河出文庫, p.156)

「『ダ・カポ』は音楽の反復記号、楽曲を最初に戻って繰り返し演奏せよの意。この音が繰り返され、不穏な気分が醸される。火口の奥の溶岩がこんな音を立てていそう。」
(選者・小澤氏による鑑賞, 同)


「火口の奥の溶岩」のごとく低く谺し続けるのだが、それに加えて、


葉月:
暁の果てに、この無気力な町と、そのレプラの、衰弱の、飢餓の、谷底にうずくまった恐怖の、木々に隠れた恐怖の、土の中に穿たれた恐怖の、空を漂う恐怖の、堆積した恐怖の彼岸と、その苦悩の噴気孔。
(p.31)


畳みかけるような語の羅列がスネアドラムめいたリズムをも刻む。そこには、


「(……)
 八番目に坐っているのが(引用注:蚊に)刺されて、『アイ』と言った。
『アハルガナー、どうしたのです。何かが刺したのですか』とアハルプーが尋ねた。
 九番目に坐っているのが刺されて、『アイ』と言った。
『チャミアバック、どうしたのですか』とアハルガナーが尋ねた。
(……)
十四番目に坐っているのが刺されて、『アイ』と言った。
『何が刺したんだい、キクリスカック』とキクレーが言った。
 こうして、みんなが、次から次へと、おたがいにその名前を呼びあっていったから、部屋の隅に坐っていた者の名前がみんなわかってしまった。」
(A・レシーノス 原訳, 林屋永吉 訳『マヤ神話 ポポル・ヴフ』中公文庫, pp.174-175)


神話的な反復の構造も反響しているのかもしれないが、ところで、上の挿話が「口から口へと語り伝えられた」(同書, pp.27-28)とき、語り部たちは声色でも変えながらこのやりとりを “上演” したのだろうか。


「かつて、この話が焚火のまわりで、あるいは雨の日の小屋の中で、蜒々と語られた時、この話はもっと錯綜し、混乱し、語り手は途中でたびたび言いよどんだことだろう。筋を離れ、聞き手に助けられ、またとまどい、新しい部分を付けたし、聞いている子供の名前をこっそり物語にすべりこませ、大団円までの遠い道をのんびりと辿りつづけた。書物になった物語にはその時間の長さがない。文字は話し言葉に較べれば、痩せて、ふくらみにとぼしく、語られる一瞬ごとの喜びよりは全体の構成や矛盾の根絶にばかり意を注ぐ冷たい伝達法だ。ただ読むのを聞くのとパフォーマンスとして展開されるのを受け止めるのとでは、聞き手の姿勢がまるで違う。」
(池澤夏樹『夏の朝の成層圈』中公文庫,p.159)


 詩人の頭蓋で肉声として谺していたはずの言葉に、再び血を通わすこと。それが前回の「抵抗の詩人リーディング」、および「抵抗の詩人リーディング2 帰郷ノート」で演出家・赤井が試みたことなのだろう。俳優たちの身体は「谺をうみだす反響板」として、声だけでなく、


「歩行は、だれかに追いかけられたり、追いかけさせたりしながら、環境を動的に組織化し、一連の交話的なトポスの数々をつくりだしてゆく。そうして、コミュニケーションを確立しようとするこの交話機能が、すでに小鳥たちのさえずり言葉の特徴をなし、おなじように、『子どもたちの習得する最初の言語機能』をなしているのなら、こうした歩行が、だれかに何かを伝えようと声をかけるのに先立って、あるいはそれと同時に、『もし、もし!』と呼びかわしあうこだまの迷宮のなか、跳びはねたり、四つ足で歩いたり、ある時にはゆっくりと、またある時には足どり軽く、踊ったり、散歩したりしていても不思議はないはずだ。」
(ミシェル・ド・セルトー 著,山田登世子 訳『日常的実践のポイエティーク』ちくま学芸文庫,pp.248-249)


その身ぶりや足どりによっても「呼びかわしあうこだまの迷宮」を形作っていて、


田村:
出発する。
ハイエナ/人間がいるので、豹/人間がいるので、私はユダヤ/人間になるだろう
カフィル/人間に
カルカッタ/の/ヒンドゥー/人間に
投票/しない/ハーレム/の/人間に
(p.43)

葉月:
飢餓/人間、侮辱/人間、拷問/人間、いつでもそいつをつかまえてぶちのめし、殺すことができた ―― ほんとうに殺すのだ ――、誰に対するどんな説明も、誰に対するどんな申し開きも求められることなく
ユダヤ/人間
ポグロム/人間
犬っころ
物乞
(pp.43-44)


続けざまに発せられる「/人間」、そして「物乞」の響きとともに倒れ込んだ金子の姿が、私の脳裏に次の詩を谺させた。


「人間-動物でいるのは過酷。皮肉をいおうとしているわけじゃない。わたしたちは、たしかにそう扱われているから。

動物の権利のアクティビストは、汚染から、亀を全力で助けようとする。
人権のアクティビストは、不正義から、人々を懸命に助けようとする。
ガザに生まれること。それがどこに属するのか、わたしには見当もつかない。」
(アリア・カッサーブ 作, 松下新土, 片山亜紀 訳「人間-動物の日記」『現代詩手帖 2024年5月号 【特集】パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く』思潮社, p.26)

「『人間-動物の日記』の中で、彼女は、じぶん自身を『この人間-動物(This human-animal)』と呼ぶ。侮蔑の言葉として、虐殺を正当化する文脈で発せられた『人間‐動物』という言葉を、アリアはむしろ、全身で受けとめる。」
(訳者・松下氏による解題, p.29)


「私は受け入れる……私は受け入れる……すべて、全面的に…… 」(p.94)という葉月の呟きには、しかし疑問符の響きがあった。それは直前の金子の「私はもはや怒りもなく受け入れるひとりの人間にすぎない /(その心の中にはもはや巨大な、燃え立つ愛しかない)」(同)の勢いとは対照的だったが、その彼は、


葉月:
私は受け入れる。私は受け入れる。
そして、鞭打たれて『お赦しを、旦那様』と言うニグロ
そして、合法的な二十九回の鞭打ち
(p.95)


続く葉月の台詞とオーバーラップするように「お赦しを、旦那様!」と絶叫した。倒れ込んだ金子の左手首を踏みつけ、「合法的な二十九回の鞭打ち」を執行する “旦那様”(田村)が振るっているのは黒い折りたたみ傘のようだが、伸ばされ、さらに首元へ圧し当てられたそれは、


「一日が過ぎるたびに、不公平がひとつ行われるたびに、警官の棍棒が振り下ろされるたびに、労働者の要求が血の海に沈められるたびに、醜聞がもみ消されるたびに、討伐遠征が行われるたびに、共和国機動隊の装甲車、警官、自警団員が現れるたびに、われわれは失われた古い諸社会のかけがえのなさを感じさせられる。」
(「植民地主義論」『帰郷ノート/植民地主義論』p.149)


「デレク・ウォルコットがいうように、詩が大陸から切断された島であるなら、無数の詩の言葉を紡ぎ出す言語、すなわち詩人のもつ『薄暗い、宿命的な』舌とは、そのまま群島にほかならない。離れつつ、結びあう。記録された文字ではなく、ダイアレクトで染まった声の痕跡をつねに残してゆく。ユートピアが果てるところに浮上する。死者たちが出遭う界面に生まれ出る。陸と海を、動と不動を、同一性と差異を、いつでも反転させる……。」
(『群島-世界論』p.452)


「拷問台/鞭打ち台/頭締め」(p.96)という葉月の声を背に、“詩人” の舌骨を砕く「警官の棍棒」と化した。しかし、


「口じゅうが血で溢れても詩人の声は窒息しない」
(ハイナー・ミュラー 作, 岩淵達治, 谷川道子 訳「解剖タイタス ローマの没落──シェイクスピア・コメンタール」『ハムレットマシーン ―― シェイクスピア・ファクトリー[ハイナー・ミュラー・テクスト集 1]』未來社,p.74)


己の右手を見ながら、「ぼってりとした泥の中で足を踏んばる。」(p.97)と洩らした田村の声に、低い平坦な調子で「踏んばる。」と応えたのは金子で、ゆっくりと立ち上がって上手から下手へ向かう彼の口から再び詩句が発せられる。


金子:
海のかさぶたのような島々
傷の明証のような島々
パン屑のような島々
形のない島々
(……)
おお、死よ、お前のぬかるむ沼を!
難破よ、お前の残骸の地獄を! 私は受け入れる!
(pp.98-99)

「群島の言語 ――。そうした新たな名辞をここで提示したい誘惑に私はかられる。『大陸』の原理が抑圧する言語のひとつは国家的枠組みを欠いたダイアレクトという消えかける地方言語であり、もうひとつがピジン・クレオールというどこにもネイティヴな帰属を持たない浮遊する混淆言語である。そうした大陸言語の抑圧のもとに上書きされて見えなくなっていたくぐもった異語の肌理が、いま群島のヴィジョンのなかで浮上しつつあるとはいえないだろうか?」
(『群島-世界論』p.335)

「要するに、決定的で神聖なものと見なされた台本に戻るのではなく、何よりも重要なのは、台本への演劇の従属を断ち切り、そして身振りと思考との途上にある一種の唯一の言語の概念を再び見出すことである。
 この言語は、対話形式の言葉による表現の可能性に対立する可能性、動的表現による、ならびに空間における可能性によってしか定義することはできない。そして演劇が言葉からまだ奪い取ることができるもの、それは語の外への拡大の、空間における発展の、感受性に対する解離的で振動的なプロットの可能性である。まさにここに介入するのはひとつの語の抑揚と特殊な発音である。」
(アントナン・アルトー 著, 鈴木創士 訳「残酷の演劇(第一宣言)」『演劇とその分身』河出文庫, p.144)


 そこに「受け入れる?」と、やはり疑問符まじりの調子で谺したのは葉月の声で、「ヨーロッパは何世紀にもわたってわれわれに嘘を詰め込み、悪臭で膨れ上がらせたのだと、」(p.102)の「悪臭」を「アクシュウ」と片言めいて発音した田村は、思い返してみれば「フ/ロリダ」「ア/フリ/カ」(pp.49-50)みたいに、国土や大陸に音の楔を打ちこんでいた。こうした「ひとつの語の抑揚と特殊な発音」が「くぐもった異語の肌理」を再びもたらし、この『帰郷ノート』自体、 セゼールの叫びである “Cahier d'un retour au pays natal” が、砂野氏という “語り部” によって翻訳された「消えかける地方言語」であることを思い出させる。演劇とは、


「ヨーロッパの植民者たちは、大陸から船出して未知の島へとたどりつき、上陸してその汀の砂に征服旗をたて、彼らの名と王や女王の名を砂の上に刻み、その名は永遠のものとなった。群島の詩人たちは、西インドから、インドから、東アジアから、アフリカから彼らの群島の汀へと漂着し、トネリコの杖かモクマオウの杖を持って砂上に名を刻んだが、海はその痕跡をたちまち洗い流していった。だが、この書いては抹消されるという出来事が、書かれた歴史の不在をもたらし、逆に群島人たちの身体の内部に書きとめられた関係性の記憶を守りぬくことに貢献した。その豊かな記憶の声は、いまも汀の砂に刻まれつづけている。波がそれを洗おうとも、誰かがその無数の名前の跡を上書きし、次の者へと伝達する。潮の満ち干は、この間欠的な永遠の記憶継承運動のリズムである。」
(『群島-世界論』p.454)


「台本と書かれた詩というこの迷信と手を切らねばならない。書かれた詩は一度は価値があるが、続いてそれを破壊すべきである。死んだ詩人たちは他の者たちに席を譲るべきだ。そしてそれがどんなに美しく価値があろうと、すでに為されたことを前にした崇拝は、(……)要するにわれわれが隠れている力との接触をもつことを妨げるのだということをわれわれはもうわかっていいはずである。(……)同じくある台本の詩的効力も尽き果てるのだが、尽き果てる速度が最も遅いのが演劇のポエジーとその効力であり、それは身振りをつけられ発声されるものの活動を受け入れ、けっして二度と繰り返されないからである。」
(「傑作と縁を切る」『演劇とその分身』 p.127)


紙片=詩片を1枚ずつ火にくべながら、時にその眩さに目を焼かれつつも、舞台という「汀の砂」に詩句を書きとめ続ける営為なのではないか。だとすれば私たち観客の仕事は、ひととき身を寄せ合って陸地を形作り、舞台との間に海岸線を生じさせることであり、 高みの見物はただ、舞い上げられた灰にのみ許されているのだろう。


田村:
昇れ、鳩よ
昇れ
昇れ
昇れ
私はお前についていく、祖先から受け継いだ私の白い角膜に焼きついたお前に。
(p.115)


「わたしは誰のもとにも戻りたくない。どの国にも帰りたくない。
この長い不在の後では、ただ自分の言語に戻りたいだけだ、鳩の鳴声のはての。」
(マフムード・ダルウィーシュ 作, 四方田犬彦 訳「壁に描く」『パレスチナ詩集』ちくま文庫, p.117)


 もやいを解き、サブテレニアンという小島から「鳩の鳴声のはての」、あるいは「暁の果て」の「自分の言語」へふたたび出航した私たちもまた、今や群島の一部を成している。〈了〉


注)タイトルは『群島-世界論』p.438による。D4cfde053ef940d6996def5addbd45d1_1_105_c 9c3c4131d3a5478194a8f35940388d1f_1_105_c 643d622ec4a74a5584be72074330f5bf_1_105_c 

2025年10月 9日 (木)

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」稽古場レポート5

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」レポート⑤作・演出:水野宏太

結果として良かった。
重々ダルダルはやはり虫垂炎のせいだった。
稽古前に指摘すると、そんな事はないいつも通りにやったと宣いやがった。
で、今日はダルンダルンくらいにリラックスしてやってくれと通達してみた。
ダメ出しはなしダメ取りもしない。
終わったら即飲み会だと。
結果として、大成功でしたね。
やはり虫垂炎のせいだとは明確にわかる結果でしたが、本人と直接話して臨んだところ
‥まぁ見事に修正してくれました。
さすがだなぁと感じてしまいました。
やっぱりこいつでショーマストゴーオンと思ってしまった。
代役ゴメン。
が、代役のおかげでいかに俺がルーティンで役者を見ていたのかを気付かされた。
風景を変える事は必要なんだなぁと。
舞台創作に気を取られて、役者の生活感を無視してましたかね。
特権的肉体論ですね。
その度にいちいち虫垂炎になられたら気が狂いますけど。
何とか生きた板に役者を乗っけてあげられるのかなぁと思われる良い稽古でした。
まだ齢53ですけど、役者スタッフに本当に心底感謝を出来るようになりました。
遅いのかな‥?
おっと、まだ本番が終わったわけではないぜ。
作演の俺がこんなしんみりしてる場合ではない。
もっと役者にハッパをかけて‥
ダメだな‥変わるのは難しい。
変革なんて出来るんだろうか?
集中稽古場としてお貸しいただいたサブテレ二アン様にも本当に感謝です。
5000円割引に惹かれて提出したレポートにもダメを出していただきました。
この歳になって演出なんかをしておりますと中々他者からの苦言を受けなくなりまして、自分の殻だけに閉じこもってしまいがちでして、勘違いしてしまうんですよね。
それでのうのうと生きていける図太さがあれば、それはそれで良いのでしょうが。
俺なんか虚勢を張ってはいますが実は臆病なだけなんですよね。劇団員なんかにはそんなこととーにバレてて、気を遣って水野さんは繊細だからとか言われる始末です。
ハッキリと
こんなレポートはNO!
と突きつけられて、謙虚さって言うの?
それを勉強させて頂きました。
本当にありがとうございました。

 

 

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」2025年10月10日(金)〜10月12日(日)ウエストエンドスタジオ

2025年10月 8日 (水)

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」稽古場レポート4

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」レポート④作・演出:水野宏太

昨日のグダグダの通し稽古を見て、家に帰って(またそれも電車が止まっていて家にかえれるのだろうかと必死にスマホと格闘しながら何とか家着)、興奮してパンパンになった脳血流を鎮めるために取り敢えず飲む。
反芻する。飲む、反芻する。飲む、反芻する。
原因が見えてきた。
虫垂炎のせいだ。
虫垂炎が頑張り過ぎたのだ。
元気ですよアピールが必要であったのであろう。
が、気合いが頑張りが気負いが、無駄なアップデートして作動を重くしているのだ。
相手の台詞に対するリアクションが逐一自分の感情に落とし込む作業を経てから喋るもんで、なかなかキツイ。
台詞を飲む
と言う言葉がありまして。
相手の台詞を受けて、一度自分に落とし込んでからエイヤって喋るんですね。
このエイヤってやつが力みを生み出すんですね。
本当にコンマ何秒の世界なんだが、これをイチイチやるもんだから、まぁ重い重い。
台詞を舐めるな
とか、そういうダメを出される演出家さんがいました。
バカにするという意味合いではないのですね。
若い頃はわからなかったのですが、やっとこさこの歳になってわかってきたようだ。
新劇と呼ばれていた時代は逆にそんな感じで芝居しないと「芝居を舐めるな」とか言われてましたね。
この場合のなめるなは、バカにするなと言う意味合いですね。
親が川崎で劇団やってまして、真っ赤っかのアマチュア劇団だったのですが。
子供の頃に稽古場でそういうダメ出しを見ましたね。
我々がやっているのは新劇だ。
と宣っていましたから、あれが新劇なのかなか?
嫌いでしてねぇあの雰囲気が。
大嫌いで。
ダメ出しが高じてだんだんと思想の話しになっていくわけですよ。
我々はってな具合で。
これがまた長い事長い事‥
嫌いでした本当
でも相当刷り込まれてますね実は。
何だかんだ言って結局俺も演劇やってるし、まぁそーゆーのとはかけ離れたやつをやってますけど。
進撃の巨人を新劇の巨人って本当に間違えてましたからね。
おっと何の話だったっけ?
つまりはお芝居は難しいって事ですね。
ま、俺に能力がないと言ってしまえばそれまでですけど。
今日も今日とて通し稽古やります。
今日こそは気合いを入れず力を入れず
汗水垂らさず鼻水垂らして
くらいに役者をリラックスさせてやってみよう。
いや、俺がリラックスしてやってみよう。
令和式に倣ってやってみよう。

 

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」2025年10月10日(金)〜10月12日(日)ウエストエンドスタジオ

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」稽古場レポート3

「愛らしく」レポート③作・演出:水野宏太

虫垂炎が稽古場に来た。
盲腸どうだ?
と聞いたら
虫垂炎です
と答えてきた。
どっちでもいいんだそんなもん。
やれんのか?
と、髙田延彦ばりに問うたところ
やれます!
とのこと。
舞台の上で死ねたら本望ですよ
と、軽口を叩いてきたので、お前は本望かも知れないがこっちはいい迷惑だと嗜めておいた。
代役の奴は「良かったですね」と喜んで握手をしてる。
胸が締め付けられる想いだ。
今日の通し稽古で代役にやらせたら、おそらく仕上がった「本役」を見せつけてくるだろう。
そのこけた頬から察する事はできる。
そんなものを見せつけられたら私はブレる。
ブレる自信たっぷりである。
だから今日はやらせない。
今日は虫垂炎の抜き稽古からはじめる。
体調に問題はなさそうだ。
代役の良かった部分を取り入れてみる。
変わってきた、跳ねてきた。
マイナスはプラスに転換させていくものだ。
雨降って地固まれー!
代役もそれを嬉々として見てる。
目頭が熱くなってきた‥
これぞ演劇をやってきた本懐ではないのだろうか。
いや‥違う‥目頭が熱く‥違う‥重くなってきた。
眠い!猛烈に眠い!
もともと疲れがたまった状態で集中稽古に入ったのだが、虫垂炎ハプニングによって一気に緊張感が高まり、アドレナリンが噴出した。そこで一安心となったところで一気に乳酸が噴出したのだ。
が、逃げられない。
今日は照明さん音響さんが来ての通し稽古をやらねばならぬのだ。
肉体が辛い。強い身体が欲しい。
これが特権的肉体論と言うやつなのだろうか。
‥たぶん違う‥いや、絶対に違う。
踏ん張らねば気合いを入れねば良い通しをスタッフさんに見てもらって、この機運を逃さず本場へ向けて更に昇華していかねば。
テメーら!気合い入れてやるぞ!

‥だからぁ、昨日学んだはずじゃないか。

演者熱も上がり、腹筋全開発声の足ドン感情表現のカオス状態になっていたので「力を抜いてやってくれ」と言ったところ、結果として非常に回転の良い表出から表現へと昇華した稽古になった。
‥って書いたじゃない

もうベタベタ、重重、台詞に逐一しじまが入る。
ランタイムは変わらないのに、体感は10分オーバー。
あれ?悪くなった?
う〜ん‥難しい‥どしたらいいの‥?
次こそ力を抜かなければならない。
という事を教えられた集中稽古3日目であった。

 

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」2025年10月10日(金)〜10月12日(日)ウエストエンドスタジオ

2025年10月 7日 (火)

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」稽古場レポート2

「愛らしく」レポート②作・演出:水野宏太

虫垂炎の役者は今日も来ない。
皆で改めて話し合った結果は、
やはりショーマストゴーオン。
これで中止という選択肢はなくなった。
代役を立てて稽古をする。
もちろん本役の体で稽古をする。
頑張ってくれているが、もちろん台詞は入り切ってはいない。
あたりまえだ。
それでも、ほとんど寝ていないかのような頑張りに頭が下がる思いだ。
虫垂炎の役者が板に乗れる状態にもどれば、もちろん本役で行く。
これも総意である。
そんな物悲しい状況であるにも関わらず、そいつは頑張っている。
そして、その頑張りが役者全員に伝播されたかのような、今まで以上に緊張感のある稽古場が生まれた。
雨降って地固まる。
まさに僥倖。
演劇は総合芸術と言われるが、ここまでの幸不幸を含む総合だとは思わなかった。
もう楽しむしかない。
楽しめない‥
否!実は楽しいのだ。
役者自身の持つキャラクター、役の舞台上での役割としてのキャラクターが新たな肉体を通して交じり合いハレーションを起こし、今までの稽古場では見た事もない景色が展開されていく。
嗚呼、この結束感。
そして、以前は虫垂炎を中心に軸回転していたため廻りの役者が前傾角度になっていた(要するに頼っていた感があった)のだが、代役のために頑張ろう、助けてやろうという意識、磁場が生まれたためか、各々が自立しているようにも感じられた。
真っ直ぐ立ったいる。
このままこいつでやっても良いんじゃないか?
いやでも、それではここまで頑張ってきた虫垂炎に申し訳がたたない。
それは、これまで虫垂炎が皆と共に創り出してきた世界観があってこそなのだ。
嗚呼、それにしても時間がない‥。
もどかしい‥。
明日なんか来なけりゃいいのに‥。
さて終了の時間が来てしまった。
明日、虫垂炎は来る予定だと言う。
とりあえずは様子見するしかない。
ま、ショーマストゴーオン
という決意を体現できた稽古だった。

で、アクシデントにより演者熱も上がり、腹筋全開発声の足ドン感情表現のカオス状態になっていたので「力を抜いてやってくれ」と言ったところ、結果として非常に回転の良い表出から表現へと昇華した稽古になった。
あれ?良くなった?
う〜ん‥難しい‥どしたらいいの‥?
そうか!俺こそ力を抜かなければならない。
という事を教えられた集中稽古2日目であった。

 

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」2025年10月10日(金)〜10月12日(日)ウエストエンドスタジオ

2025年10月 6日 (月)

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」稽古場レポート1

「愛らしく」レポート①作・演出:水野宏太

劇団くりびつてんぎょう第 18回公演「愛らしく」久々にやる本公演。来週から中野にあるウエストエンドスタジオに入る。その前の集中稽古の初日である。 朝からいきなりのアクシデントである。LINEに『すいません。虫垂炎になりました』というキャストからの連絡が届く。朝から非常にブルーである。ここから精度を上げて創造し、出ハケなども確認して、仕上げの作業に入ろうと思ったが、また 1からやり直しである。稽古場に入り、早速、その事についてキャストとスタッフ全員で話し合った。選択肢はいろいろある。まず、公演中止。簡単な方法だが、それに伴う負債が計り知れない。その虫垂炎になったキャストに全部背負わせるのか?そんな話にもなり、代役をたて公演をおこなう。この選択肢に落ち着いた。ショーマストゴーオンだ。まあ現実と虚構という世界において、現実の方が面白いとはまさにこのことであると思われる。役者と一定の距離を保っていたが、そういうわけにもいかず縮め 役者における目的もしくは作品における目的というものを新しくキャスティングをした人間と共有しなければならないという作業になった。新しくキャ人間と元々キャスティングされていた人間は感性が似ている。だがしかし、微妙なニュアンス 言い回しテキスチャーが違う。それをトレースしていく作業が非常に難しい。そこで本役の虫垂炎の人間に演出した解釈を代役として立っている人間に伝え、シーンごとに代役の人間の感性と表現力を自由に表現してもらった。 これによって、元々作り上げていった作品シーンとは違った色味を得ることができた。色々と大変だったが、それはそれで演出としては新しい演劇の発見でもあった。予想だにしないアクシデントから始まった初日の集中稽古だが、新しい発見を得て一筋の希望と、新しい作品を構築していく喜びを感じた。明日はさてどうなるんだろう。もしかしたら中止になるかもしれない。まあそれはそれでなるようになるであろう。それではまた明日。

 

劇団くりびつてんぎょう「愛らしく」2025年10月10日(金)〜10月12日(日)ウエストエンドスタジオ

2025年3月 7日 (金)

《白紙β》『“それじゃあ、どうする?” ―― 「新ガザ・モノローグ2024」に寄せて』

公演情報(https://www.subterranean.jp/newgazamonologues2024 より) 「サブテレニアンプロデュース リーディング公演『新ガザ・モノローグ 2024』」
(https://www.youtube.com/watch?v=_J7wUPYpdGA より視聴可能)


テキスト/アシュタールシアター
翻訳/藤田ヒロシ
構成・演出/赤井康弘


2025 年 2 月 22 日(土)14 時/18 時 出演/大美穂(イナホノウミ)、坂本麻里絵(Nyx)、金子森


アフタートークゲスト(以下の URL より視聴可能)
14 時/早尾貴紀氏(東京経済大学教授)https://www.youtube.com/watch?v=oupGXHiiFoA 18 時/岡真理氏(早稲田大学教授) https://www.youtube.com/watch?v=mPHFQoH8KLM


照明/麗乃(あをともして)
企画・製作/赤井康弘(サブテレニアン)
協力/迷子の遊園地
主催/サブテレニアン


椅子が 3 脚ある。舞台のほぼ真ん中に位置する 1 脚を先頭に、その少し奥に下手の 1 脚、 さらに奥に上手の 1 脚と並んだそれらは細い三角形を描いている(少しだけ、地図上のパ レスチナ/イスラエルを連想する)が、3 脚は雰囲気こそ似ているものの同じものではない。 中央のそれを胡桃色とすれば、左右 2 脚は琥珀色で少しだけ明るい。座面にモスグリーンの布張りがされているのは下手の椅子だけで、上手のものは、座った人を抱くかのように背もたれの笠木がU字になっている分、背柱が耳みたいに飛び出した他の 2 脚よりいくぶん 小柄だし、X脚気味でもある。そうした椅子たちに見覚えがあるのは、昨年の、同じくサブテレニアン主催によるリーディング公演『ガザモノローグ 2023』(公演情報については https://www.subterranean.jp/gazamonologue2023 を、新野守広氏の劇評については http://theatrearts.aict-iatc.jp/202403/7994/ をそれぞれ参照のこと)で使われていたためでもあるし、そもそも椅子として、さして珍しくないデザインだからでもあるが、

「自分のシンプルな行為が、最上の喜びだったことに気づき、あなたはこれらを思い出し、 朝、ストーブの前に立って、スイッチを入れて、チョコレートを横に置き、静かにコーヒーを飲むような状況に戻ることを夢見るでしょう。」(アリー・アブー・ヤースィーン 創作『ガ ザ・モノローグ 2023』より『戦時中の日常(The long minutes of war)』赤井康弘 訳。 https://www.youtube.com/watch?v=-RD5ZKQaqUY より聞き書き)


と、前回の出演者である赤松由美(コニエレニ)が述べたその懐古において、コーヒーカッ プを持つ手、その指先までまだまどろんでいるようなその人は、きっと “ありふれた” 椅子 に支えられていた。今回の『新ガザ・モノローグ 2024』に移れば、大美穂(イナホノウミ) が以下のように語る。


「かつて私は子どもたちの手を握り一緒に舞台に立っていましたが、それは彼らの失われた部分を運ぶためではありません。彼らの手足は電線と共に地面に散り散りになっていま した。それはまるで乾かされるのを待つ衣服のようでしたが、私には不安はなく落ち着いていました。」(アシュタール・シアター 制作『新ガザ・モノローグ 2024』より『#4 アムジャド・アブー・ヤースィーン 2024 年 11 月 10 日』藤田ヒロシ訳。藤田氏の WEB サイト https://maigo.link/Tothefuture/gazamonologues.html にて、同テキストおよび『ガザ・モノローグ 2023』の PDF をダウンロード可能)


彼女の「衣服のようでしたが、」という声に、上手の坂本麻里絵(Nyx)は、伏すようだったその目を中央の椅子に掛けた大へと向けた。下手には金子森も座っていて、「落ち着いて いました。」と結ばれるやいなや、3 人は台本をめくる。3 冊の台本。それらの表紙は白(金子)・赤(大)・緑(坂本)と塗り分けられており、舞台正面から上手の壁にかけて、同じく 白・赤・緑のテープが計 5 本、様々な角度や⻑さで貼り散らされている。サブテレニアンというブラックボックスに配されたそれらが、上から黑・白・緑の水平三色旗に赤の三角があしらわれたパレスチナ旗を暗示しつつ、一方で、バラバラになった時計の針のようにも見えるのは、中央の壁にアナログ時計が2つ掛けてあるからだ。ミルクチョコレート色の縁を 持った双子じみたそれらの内、向かって左が昼公演開始時刻の午後2時を報せた時、右は7時を指していた(ちなみに、日本はパレスチナより7時間進んでいるようだ)。赤井康弘の 演出でおなじみの、カチッカチッというメトロノームの音も鳴っているが、その切迫感がいや増しているのは、


「今では死ぬこと自体が最も恐ろしいことではなくなりました。もっと恐ろしいのは死を取り巻く無力感です。」(『#1 アフマド・ターハー 2024 年 11 月 12 日』)

という金子の声が重なったからだ。彼の朗読が始まるのと時を同じくして、坂本の身体は椅子の上でゆっくりとのけぞり、徐々に座面から滑り落ち始め、


「しかし、今ではどのような形であれ移住を支持します。友人や見知らぬ人、誰であっても、 命の尊厳が守られる場所を探すよう、少しでも安全と希望が得られる土地を求めるよう、強く勧めます。」(同)


の「希望」と共に膝が床に触れる。そして、


「友人たちの肉片をこの手で拾い集め、それを埋葬したときの苦痛についてはここで語りたくありません。」(同)


に呼応するがごとく、坂本は床に触れんばかりの距離で、手のひらを静かに動かした。金子によって続けられた、


「それはある日の夕方、私と家族が一日の終わりにお茶を飲んでいた時に起きました。突然、 小型無人機が私たちの家に侵入し、銃撃を始めました。(中略)父は命を取り留めましたが、 40 日間の入院生活の末、今では足を引きずりながら歩いています。あの日の出来事が体に刻まれた証です。」(同)


という「私の人生で最も衝撃的だった瞬間」が、


「日常的にはガザ地区を包囲するフェンスのすぐ外側からスナイパーがデモ・集会の参加 者に対して正確な狙撃をしている。(中略)それ以上に多くのケースで特殊な炸裂弾によって意図的に片脚を吹き飛ばしているのだ。これは、見た目の数的に『死者数』を減らしつつ、 殺すこと以上の苦しみと負担とを生涯にわたって本人や家族に背負わせることがもくろまれている。」(早尾貴紀『パレスチナ/イスラエル論』有志舎,p.11)


に “類例” を加えていたが、それは単なる “+1” では決してない。


あしに おなまえかいて、ママ
すうじはぜったい かかないで
うまれたひや じゅうしょなんて いい
あたしはばんごうになりたくない
あたし かずじゃない おなまえがあるの

(思潮社『現代詩手帖 2024 年 5 月号 【特集】パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴 く』所収,ゼイナ・アッザーム 作,原口昇平 訳『おなまえ かいて』pp.37-38)


「翻訳者として特に印象深いのは、話者が第五連で名前を求めながら数字を忌避していること。これが抵抗しているのは、人間から人間らしさを奪う行為だ。死傷者数を強調する報道。かつて強制収容所の被収容者の腕に登録番号を彫ったナチス。イスラエル軍はそれと同じことを行っていて、一九六七年以来、『数字の墓地』と呼ばれる秘密基地を非公開の軍事地帯に設け、墓標に名前でなく番号のみを記し、三百超にのぼるといわれるパレスチナ人レジスタンスの遺体を遺族に返還せず埋めている。」(訳者による同作への「解題」より)


「私は今、ジェノサイド、⺠族浄化、そして人々の強制移住が始まってから 400 日目のこの日に、こうして言葉を、エジプトから綴っています。」(『#2 アシュラフ・アッ=スースィ ー 2024年11月11日』)


そして、ここから話者を変えながら幾度も語られる「400 日目」の重みもまた、単なる 24 時間×400 日=9600 時間と言い換えることはできないし、そもそも振り返れば、


2023 10 月 7 日、イスラエルによるガザ地区攻撃が始まる 2022 5 月、イスラエル、ガザを攻撃(3 日間)
2021 5 月、イスラエル、ガザを攻撃(15日間)
2014 7 月、イスラエル、ガザを攻撃(51日間戦争) 2012 11 月、イスラエル、ガザを攻撃(8 日間)
2008 12 月、イスラエル、ガザを攻撃(22日間)


(岡真理『ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義』大和書房,p.11 より抜粋し、 以下の記述についても同書を参照。元になった講演については、 https://www.youtube.com/watch?v=-baPSQIgcGc にて視聴可能)


と、攻撃は断続的に続いており、2018年3月30日から1年半にわたってガザで行われた、 パレスチナ難⺠の帰還を求める「帰還の大行進」の際にも、イスラエルはデモ参加者を多数 殺傷した。その際に解除が訴えられたガザ封鎖は 2007 年から続き、ナクバ(大災厄)と呼ばれる「1948 年のイスラエル建国の際に行われたパレスチナ人への⺠族浄化」(当日パンフレットより)にいたっては77年前のことで、椅子から床に落ち、倒れこんでいた坂本は立膝で朗読を始め、ゆっくりと立ち上がり、下手へと彷徨する。


「だけれど、どうやってあの大きな喜びを伝えたらいいのでしょう?私が家を購入し、準備を始めたときのことです!(中略)ペンキの色や照明のデザインを想像し、夢に描いた幸せ な生活のために結婚と家庭を築く準備を進めた、あの希望に満ちた日々を!私たちが築こうとした未来が一瞬のうちに奪われたことを、どのように伝えれば良いのでしょうか? 」 (『#2 アシュラフ・アッ=スースィー 2024 年 11 月 11 日』)


の「照明」のあたりで坂本は下手の、サブテレニアンの本棚に行き当たり、「どのように伝えれば良いのでしょうか?」でこちらに向きなおった。
おうちっていうのはね......
それは通学路に立つ木立がつくる日陰 根っこから木をぬかれる前のこと。

それはおじいちゃんおばあちゃんの結婚式の白黑写真壁が粉々にされる前のこと。

(中略)

息子が止める。たった三文字の言葉ひとつでいま言ったこと全部受け止められるの?


(『現代詩手帖 2024 年 5 月号』所収,ムスアブ・アブートーハ 作,山口勲 訳『おうちってなに?』p.30)


「マルヤムは昨年 12 月に初めての誕生日を迎え、そして今、2 回目の誕生日が近づいています。テントの寒さや強いられる飢えから彼女を守れない日が来るとは想像もしていませんでした。」(『#3 アラー・ハッジャージュ 2024 年 11 月 11 日』)


このように大が語った「月のように美しい娘」もまた、いずれ『おうちってなに?』とい う疑問を発する日が来るのかもしれない。上の引用を挟むように、「しかし、突然すべてが変わりました!」から「今や生き延びることだけが唯一の夢になってしまいました。」まで、 藤田氏の PDF では 10 行にわたっているが、「突然」と大が言うのと同時に、上手へ戻る途 中の坂本は壁を触った。そこには白いテープが貼られていて、2 メートルほどの、なだらかな右肩上がりを端から撫で上がっていく様に、前回の『ガザモノローグ 2023』で矢内文章 (アトリエ・センターフォワード)が語った、


「爆撃エリアの外にたどり着くまで走り続け、少し休んでから、サラ・アッディン通り(Salah al-Dinʼs Street)に向かって歩きつづけました。ガザ渓谷を通り過ぎて、安全な地域、つまり、南部に到達するためです。テレビシリーズ『アル・タグリバ(Al Taghriba)』における、 荷物を背負って、悲しい音楽を聴きながら、⻲のようなペースで歩く移⺠の姿が、アブ・アハメド(Abu Ahmed)の頭の中で繰り返されました。しかし、彼を腹立たしく思わせたの は、テレビの中の移動はそれほど速くなく、おそろしいものでもなかったことでした。あっという間に 6000km を歩きました。」(『ガザ・モノローグ 2023』より『ラマ(Lama)』)

の道程を思い出す。しかし、その道のりを “俯瞰” で、“超越的な立場” で見てはいけない。


「私がすごく恐れるのは、こういった、大きな暴力というのを前にした時に、人は、すごく こう超越的な立場から、物事を、まるで、スポーツ観戦をしたりだとか、ゲームの駒を、こう、操作するように、あっ、これはこういうふうにしたらいいんじゃない?とか、これはこうじゃん、とかこれは何人でこっちは何人で、とかいうふうに、すごく、なんでしょうね、 それは、ひとつの防衛反応なのかもしれないですけども、ただの数としてしか見なくなる。」 (岡真理×永井玲衣「特別対談『ガザ地区で今起きていることと、私たちにできること』」 https://www.youtube.com/watch?v=s5NXMUldW0w より聞き書き)


という永井氏の発言と呼応するように、大はこちらを見据えて言い放つ。


「私と家族、誰もが一瞬で忘れられてしまうような数字ではありません。」(『#3 アラー・ハッジャージュ 2024 年 11 月 11 日』)
その目に射すくめられた私の胸もまた、
「自分たちの家が爆撃され、子どもたちと一緒に埋もれることを受け入れるような世界で善など存在するでしょうか!人間性も、人権も、正義も、すべてが無意味で、すべてが嘘、 嘘、嘘です。」(『#5 イーハーブ・アルヤーン 2024 年 11 月 8 日』)
で衝かれた。その直前に、「もう静かに話しません。みなさんに向かって叫びます。」(同) と言った坂本が、「嘘、嘘、」の次で叫び出すのではないかと私は思ったがそんなことはなく、 彼女はこれまで通り淡々と続けた。
 坂本に限らず、今にも叫び出すのではないか、涙をこぼしてしまうのではないか、と思わ ず心配してしまうタイミングが何度かあったのだが、それは杞憂だった。そして、自分こそ途中で泣いてしまうのではとも思ったのだが、それもまた、目の前の公演、そしてテキストに対して失礼だった。抑制的な語り、話者から注意を散らすような周囲の動きは、観客の “没入” や過度な “感情移入” を周到に防いでいて、赤井は、観客に浸ることではなく思考し行動することを求めていた。リーディング公演という形式自体も、役になりきった俳優、 その姿を見ることで同一化を図る観客、という関係性の発生を妨げていて、台本は、俳優にとっても、観客にとっても他者であり続けた。その狭間に在り続けた俳優の身体は、強靭だった。


「パリの通りの清潔さに関して言えば、私たちの通りの方がはるかに綺麗です。地面に落ちた紙や、木片、擦り切れた衣服とかプラスチックなどを見つけることは不可能です。それらは全て地面に投げられた宝物のようになります。なぜなら、誰もが食べ物を調理する度に火をおこすために、それらを使用するからです。(中略)こうしてガザはパリよりも綺麗になります。」(『ガザ・モノローグ 2023』より『戦争とガザ(War and Gaza)』)


 葉月結子が語ったこの一節をはじめ、『ガザ・モノローグ 2023』はユーモアやフィクションへの言及に満ちていて、それはアリー・アブー・ヤースィーン氏による創作であることも関連しているのだろうが、『新ガザ・モノローグ 2024』ではもはや、

「そして、この世界と同じように、私も無意味なことを話したい気持ちが強くなりました。 世界に向け話しかけるなら、むしろ無意味なことを言えばいいのだと。なぜなら、この世界に対処するにはその言語が適していると感じるから!」(『#5 イーハーブ・アルヤーン2024年11月8日 』)


「それから、むしろ、言葉、あるいはまともな議論に対する絶望、もう無意味なことを語ろうっていうところもまた印象的で、言葉が、完全にかみ合わない、自分たちが見ている世界 とか、かくあるべしと思っている価値観っていうものが、全く、こう、通用しない、そのあべこべな世界にいるような...」(早尾貴紀氏による『新ガザ・モノローグ 2024』アフタートークより聞き書き)


そうした言葉、世界への信頼は消えかかっている。


「ガザ市⺠の運命は、疲弊と苦しみ、⻑く続く困難な日々を生きることだった。それでもな お彼らは、正常な日常のようにしようと努力し、その終わりに平穏なひとときを、と願っていた。しかし、その願いは石も人も区別しない残酷な戦争によって打ち砕かれた。」(『#10 スジュード・フセイン 2024 年 11 月 11 日』)

の「打ち砕かれた。」を言い終えた金子は、これまでずっと座っていたがここで立ち上がる。


「しかしその数日後、占領軍は避難所の全避難⺠に、ここは危険な戦闘地帯だと宣言し、ハ ーン・ユーニスを離れてラファへ移動するよう命じた。『人道回廊』と呼ばれる道を渡るとき、言葉では言い表せない屈辱に耐えた。戦車の間を歩く恐怖、兵士の嘲笑う視線、家族と 離れ離れになる恐怖、わずかに持っているものを失う不安 ̶ それは絶望の瞬間だった。」 (同)


という一節を金子が読み上げた時、彼はすでに自らの席から下手の本棚前におり、しばらく本の背表紙に向かって語りかけていたが「戦闘地帯」で振り向く。視線の先は上手で、金子がゆっくりと移動しはじめる中、すでに下手方向に進んでいた坂本が、「絶望」の声と共に彼の椅子に腰掛ける。坂本は、舞台中央から向けられた大の視線を受けつつ、


「頻繁に会っていた友人たちにすら別れを告げられずガザを去った。何年も、どのように別れを告げ、どのように再会するかを思い描いていたのに、戦争は旅立ちの障害となり、想いを台無しにした。いま、私に友人がどれほど必要で、どれほど会いたいと思っているのか ― 母、姉妹、友人、そして思い出への渇望を世界は理解しているの?」(同)


と続け、それに対するこだまのように、大が以下のように重ねた時、


「喪失というのはとても辛く苦しいもので、経験した人以外誰もそれを本当に理解することはできないでしょう。母、父、兄、姉、その夫、その子供たち、そして孫を一日で失う ― それはあまりにも痛ましく、誰も耐えることなどできません。家族の温もりや優しさ、その声、彼らに関するすべて、大切な思い出さえも失ってしまう。更には、彼らが埋葬された墓や家までも失い、そこに行って彼らに会うことすら叶わないのです。」(『#12 マフムード・ アブー・シャアバーン 2024 年 11 月 9 日』)


すでに床へと滑り落ちていた坂本は、指折り数えるような「母、父、兄、姉、...」に合わせて、愛おしげに座面を撫で、頬をそっと寄せた。彼女がその椅子をゆっくりと傾けはじめたのは、


「親戚に次々と電話をかけましたが、誰もが異なる情報を伝えてきました。負傷者がいると言う人もいれば、私を安心させようとする人もいました。そして6時間後すべての通信が途絶え、誰からの連絡もなくなりました。」(同)


大が「異なる情報」と発した時で、上手奥から再び移動していた金子も下手奥へとたどり着いた。椅子が、一本の脚を軸にゆっくりと、しかし完全に横たえられたのは、「埋葬地がブルドーザーで破壊された...」(同)と、大が更なる暴力を静かに告発しているさなかだった。


「もうこれ以上、不正義は十分だ。死はもう十分だ。沈黙ももう十分だ!!!  私のメッセージは、心の中にほんの少しでも人間性を持つすべての人に向けたものです。ガザのことは耳にしていると思いますが、状況が言葉では言い表せないほど過酷なもので あることを理解してほしいと思います。この戦争は単なる爆撃の話ではなく、流血の話でもありません......私たちへの戦争はジェノサイドなのです。これは無慈悲な戦争であり、私たちの一人ひとりを殺し、誰の区別もありません。」(『#13 マフムード・アル=バルアーウィー 2024年11月19日』)


「ハマースと名付けた者たちを非人間化する言葉が氾濫する中で、パレスチナ人が人間で あるということを私たちが理解するために、私たちは文学を、文学の言葉を必要としています。文学は、人間にヒューマニティを取り戻させます。
誤解しないでください。文学によって人間性を取り戻すのはパレスチナ人ではありませ ん。私たちです。」(岡真理『ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義』p.145)

「敵の似姿に堕して自らが怪物になること、他者に自分たちと同じ人間性を認めないこと、 それこそが人間にとって真の敗北であるということをぼくたちは、この七十五年の闘いを通して知っている。何世代にもわたり難⺠キャンプで難⺠として、六〇年近い歳月を占領下 で、そして、この十六年間を完全封鎖下のガザで生きることを強いられながら、それでも、ぼくたちはずっと人間であろうと努め、人間性を決して手放しはしなかった。」(⻘土社『現 代思想 2024 年 2 月号 特集=パレスチナから問う-100 年の暴力を考える-』所収,岡真理 『小説 その十月の朝に』p.210)


大による訴えは、別の書き手によって引き継がれ、金子が声を貸し与える。そこに登場する「人間性」というフレーズが、岡真理氏による2つの言葉、かたや講演として、かたや小説として紡がれたそれらに結びつき、「無慈悲な戦争」という音が私たちの耳に届くと共に、 椅子を横たえた坂本は下手から上手へ向かいはじめる。そして、元々彼女が座っていた椅子の後ろに着いた時、金子は「私たちは人間です。」(同)と訴えており、坂本の視線は彼に向いていた。


「『みんな無事です、心配しないでください。彼らを救出しました。今は避難所の学校にい ます。落ち着いてください。ただ、サルマーン、ナジャーハ、彼女の夫マフムード、彼らの 息子ルアイと幼い娘のワルダ、アシール、アナス、バクル、アブ・アナス、アブ・アブ・ジ ャラールと彼の母、アフマドと幼い息子のウサーマ、アリ、アブ・ハサンとハサン、ザキー ヤ、マナルと乳飲み子の息子アミール、彼らは殉教しました。』」(『#17 ヤスミーン・ジャア ルール 2024年11月13日』)


と、名前を列挙する坂本を見つめていたのは大で、彼女はこれまでほとんど動いていなかったが、身体を下手へ反らしながら見ている。その角度は、ちょうど時計の指している50分と同じくらいだ。そして、


「おそらく、ビーチ難⺠キャンプに初めてウードが持ち込まれたのはこの時が初めてで、私は13歳でした。家の外にウードを持ち出すときは UNRWA から冬の援助として支給された毛布に包んでいました ― それはまるで、死体を隠しているような気分でした。」(『#19 アリー・アブー・ヤースィーン 2024 年 11 月 8 日』)


の「ウード」を読み上げると共に彼女もまた立ちあがる。大が「私たちは10月11日にビ ーチキャンプからデイル・アル・バラへ逃れました。」(同)と言ったあたりで、坂本は上手の椅子をゆっくりと自分の身体の方へと倒し、床の上で抱えるように支える。ウードは琵琶にも似た弦楽器なので構え方は全然違うが、それでも楽器みたいだ。


「もう一つの悲劇は、この 35 年間一度も舞台を離れたことがなかった ― 俳優、演出家、 脚本家、そしてトレーナーとして、私は一度も演劇の仕事を休んだことがありませんでした。 私は舞台に立ち続けてきました。それなのに、この400日間一度も公演していない、舞台に立つことさえできていないなんて、そんなことってありますか?」(同)


「ガザでほぼ唯一の劇場ホールを備えていたのがサイード・アル=ミスハール劇場だった が、こちらはすでに五年前に破壊されてしまった。芝居上演、映画上映、舞踊公演、音楽演 奏会、ラップ・パフォーマンス、ワークショップ、美術展などあらゆる文化イベントがアル =ミスハール劇場で行われていた。『ガザ・モノローグ』に限らず、アシュタール劇場がガ ザでの上演や子供向けのワークショップを行っていたのも、もっぱらここだった(中略)『帰還の大行進』が続くなか、意図的に破壊されたのである。」(『現代思想 2024 年 2 月号』所 収,田浪亜央江『記憶と人間性の破壊に抗する〈抵抗の文化〉』p.182)


大は、「私は一度も演劇の仕事を〜」と言いながら客席間近へ進み出たが、その動作には、 同じく演劇人である語り手への“接近”もおそらく重ね合わされていて、


「この公演はきっと報道陣を引きつける ― 劇場、荒廃、そして観客は子供たち、女性たち、 若者たち、高齢者たち ― なんて素晴らしい組み合わせでしょう!観客は座ることも立つ こともできます、好きなように。選択肢は、折れた柱、壊れた子供用ベッド、歪んでひっくり返った鍋、あるいは折れた木の切り株など、たくさんあります。」(同。上演に際して、赤井により一部改訳)


と並びたてられた選択肢が、今こうして座っている黑いベンチのなめらかさを、観客という 特権的な立場のひとつに身を置いていることを私たちに思い出させる。


「私の書斎に、私の世界に、私の劇場に、私のウードに、私の観客の元に、私を戻してくだ さい。私は彼らが恋しい、そして私自身が恋しい!この 400 日間、私は迷子になったままです。」(同)

の「そして私自身が恋しい、」という言葉を大は下手で発しており、舞台中央に残された椅子は、すでに坂本によって静かに横たえられていた。彼女は、椅子を覆うように抱いており、 こうして3脚の椅子は全て倒された。


「私の声とガザに住むすべての人々の声を届けてください。平和への努力を支援し、悲しみで疲れたこの地に希望を取り戻してください。私たちは痛みの真っ只中にあって、人間の良心と正義はいかなる戦争よりも強いと信じています。どうか、ガザを救って、子供時代を救って、そして未来を救ってください。」(『#15 マフムード・ナジュム 2024 年 11 月 11 日』)


こちらをまっすぐ見据えた金子がそう言い終えると、3人は台本を閉じた。黑々とした床に横たえられた3脚の椅子は、海面から顔を覗かせる島のようでもあって、


「『アーキペラゴ』というギリシャ語は、島が散らばった海(具体的にはエーゲ海)のことであり、それは島の側に重点をおけば『群島』であり海の側に重点をおけば『多島海』であるという、二重の意味ないし訳語をもつ。それを今福は、陸と海との反転、地と図の反転、ネガとポジの反転という関係で見ており、『そこに視点や認識の反転や飛躍の機会が隠れている』と言う。」(早尾貴紀『パレスチナ/イスラエル論』,p.107)


という箇所において言及されているのは、今福龍太氏と吉増剛造氏による対談『多島海、あるいは千々石 islands』(岩波書店『アーキペラゴ ― 群島としての世界へ』所収)だ。対談は、今福氏の主著『群島―世界論』(岩波書店)へと発展し、「大陸中心の歴史、つまり強大な支配国家中心の世界観を、海洋交通こそが近代を推し進めたという観点から、根底的に反 転させる壮大な企て」(『パレスチナ/イスラエル論』,p.106)を延⻑した先に、椅子=島を巡る 3 人の俳優の身体が存在しているのかもしれない。そして、散り散りの島のイメージ は “粉々になったガラス板のかけら” となって、現代パレスチナの代表的小説家およびジャーナリストであるガッサーン・カナファーニーのある短編へ流れ込んでいく。


「旦那さん、つい先だって、俺はあることについてずいぶん⻑いこと考えちまったんですよ。 俺たちの中にも、時々はものを考えたりするやつがまだいるってことを、旦那さんにも知っててもらわなくちゃあなりませんよ。俺は通りを歩いていたんですよ。するといきなり、そう、ちょうど大きなガラス板が落ちてきて、粉々になっていくようにね、ある考えが俺の脳 天におっこちてきて、それが粉々に割れて、そのかけらが身体の内側に散っていくような気 がしたんですよ。(中略)《たとえ何がどうあろうと、俺がいるってことは動かせねぇ事実なんだ。今まで、熱い茶の入ったコップの中にほうりこまれた砂糖のかたまりのように、皆で俺を溶かしちまおうとしていた。そうしようとすることでは、アッラーもとくとごらんになっていることだが、あんた達は驚くほど精魂かたむけましたね。けれども俺は、とにかくま だ溶けちまわずにいるんだ》って。〝それじゃあ、どうする?〟っていうこの問いはいつまでも鳴りやまないんですよ。」(ガッサーン・カナファーニー 著,黑田寿郎/奴田原睦明 訳 『ハイファに戻って/太陽の男たち』河出文庫より『彼岸へ』pp.163-164)

(劇評家/ライター 平岡希望)

2025年1月29日 (水)

《白紙β》『「本とAI」(イトマガジン「僕が本屋に向いている10のこと」番外編)』

板橋区ときわ台駅前にて書店と喫茶「本屋イトマイ」を開いてもうすぐ丸6年。本屋をやるというただでさえ厳しい職を選び、毎月の集客と売り上げと格闘している。でも格闘はしているが、できるだけおもしろいことに挑戦していきたいと思っている。そのなかで「イトマガジン」という不定期の読み物(1部100円)を発行して、サブテレニアンの赤井さんにもご寄稿いただいていたり、赤井さんにはイトマイでたくさんの本をご購入いただいたりしていてとても感謝している。イトマガジンには、常連さんやお付き合いのあるお店さんなどにお願いして、いろんなおもしろいエッセイを書いてもらっているが、本当に個人の想いの言葉で紡がれた文章というのは読んでいておもしろい。昨今、ZINEやリトルプレスといった個人出版が注目されているが、発掘されていないおもしろい書き手がその中にはまだまだたくさんいるに違いない。
と、ここまで書いて、これが生成AIがに書かれた文章と言ったらどうだろうか。ここまでの文章を私の特性や情報を読み込ませてAIに書かせた、としたら。結論、実際にはそれほど影響がないように思える。むしろ正確な情報が共有させる目的としたら「本物」が書いた文章より優秀かもしれない。では、創造性はどうか。現在爆発的に進むAIの知能レベルの発達は、そのへんの人が書く文章よりもよほど想像的で独創的なものができるだろう。ほんの2、3年前のものとは格段に違う本物超えしてくる文章ができあがるはずである。そこで、個人出版のZINEやリトルプレスでもそれを取り入れている人がいるのではないだろうか?あるいは、小説や演劇の台本を書かせたりする人はいないだろうか。いや、絶対にいるはずだ。そこに編集者が介入しない限りAIで全てを書くことや、一部取り入れることは誰にも文句は言われないし気づかないだろう。いま、このような文章が紡がれる時、それはもはやAIが書いたかどうかを判断できない状況下であることを認識しなければならない。
本屋としてはこのような状況に気持ちを引き締めなければならないだろうか。僕は必ずしもそうとは思わない。本物とAI。AIを「偽物」としないのはそれがすでに偽物として切り捨てるにはある種の「才能」をもっているからではないか。前々回の芥川賞を受賞した九段理江さんの「東京都同情塔」は一部を生成AIを使ったといって話題になった。
本屋として、僕はどんどんそういう複雑化していくようなものを受け入れていきたいと思っている。そこにはこの混沌とした世の中をおもしろく生き抜いていくツールが必要だと思うから。たとえ本屋という職業がAIに取って代わられようと、それは本屋イトマイにおいては本望なのだ。

(本屋イトマイ店主/鈴木永一)

2024年12月31日 (火)

《白紙β》『自然体で、繋がってゆく、一本の線』


パレスチナ⻄岸地区にあるアシュタール劇場が世界に向け連帯を呼び掛ける「ガザモノローグ」 私にとっての始まりはサブテレニアンでリーディング公演が行われると知ったときです。会場ではなくオンラインでの視聴でしたが、その後に日本語のテキストを手にし、自分でも朗読会やリーディング公演を開催し、路上で読み、モノローグを元にした短編演劇の上演し、そして今は新たに発表されたガザモノロ ーグの日本語訳を行っています。パレスチナ問題に特段の関心を持っていたわけではない私が?! それは自分でも驚きであり、いま振り返ってみれば自然な流れだったとも......今回はそのあたりを書きたいと思います。


ガザモノローグを初めて声に出して読んだとき、ガチガチに力んでようやく声にできたことを覚えています。そこに書かれていた惨劇、絶望、渇望が私の経験にはない重量、色、手触りで記されていました。ガザの人々の声を広げる媒体となるには程遠い状態でした。この時の衝撃が、これを人に聴かせられるようになりたい、という動機付けを私に与えてくれたのです。


それはパレスチナの人々の自由と解放、即時停戦といったものからは離れた実に個人的なものですが、 聴いてもらえる声にするには、パレスチナやガザのことを知って、理解し、自分の中に言葉を持たないとならない。ですから、自然な流れで知る作業を始め、少しずつ知識を得て、少しずつ理解し、読み重ね、それを一人また一人と広げてゆくために声にする。それは、アシュタール劇場がモノローグ作品としてこれらを発表していることも含め、まさに創作の活動だと感じました。この一連をそう理解すると、 政治的な活動云々という少なからずあった不安や躊躇いみたいなものが一切なくなりました。と、同時に多くの人に関わってもらいたいと思うようにもなり、読み続けていこうという覚悟も出来ました。さらに言えば、私が演劇をやって来た理由を知れた思いでいます。


時間も空間も越え、生身を媒体として、人間を描き、その希望や悲しみ、願いを伝える。その行為が鏡となり自分という人間を教えてくれる。窓となり広い世界を見せてくれる。ですから、演劇をすること、ガザモノローグを読むこと、私がいること、ガザの人々がいること、その平和の日々を望むこと、それらは私の中で一つの矛盾もなく繋がっているのです。自分事なのです。


今これを2024年最後の週末に書いています。この一年も創作活動を重ねる充実の時間を過ごすことが出来ました。そうあれた事に感謝と重みを感じる一年でありました。2025 年もそれを忘れることなく、生き、綴り、声にしていきたいと思います。
(迷子の遊園地 主宰/藤田ヒロシ)

2024年11月30日 (土)

《白紙β》『そんなわけで、七面鳥は堤防の上にとどまってしまい、その日からというもの、学校に行くあの子をこわがらせている。 ― サイマル演劇団「シュルレアリスム/宣言」の稽古に寄せて』

階段を下りるにつれ明瞭になっていったそれは扉を開ける前からすでに声へと変わっていて、
「ぼくはどこにいるんだろう?  世界たち、可能なもの!」
と叫びながら、舞台上手奥で片膝をつく大美穂の姿が、後ろ手に扉を閉めつつ滑り込んだサブテレニアンの受付からまっすぐ見えた。
一歩舞台に近づけば、中央には葉月結子が佇んでいて、扉を開ける数瞬前、薄く響いていたのはおそらく
「白い鷲たちがそこに羽根をのこしており、それぞれの羽根のなかにはひとつの森があります。」
という台詞だった。 そして下手前方、私にもっとも近いその位置では永守輝如が車椅子に座っており、
「アカリモチビワハゴロモ蛾を吐きだしながら、屍骸たちを追いかけて自分を見うしなうだけの価値があったろうか?」
と続けたこの一幕は『溶ける魚』のもので (アンドレ・ブルトン 著, 巖谷國士 訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫, pp.182-6)、今日の通し稽古が終わりかかっていることには、もう気がついていた。
受付の角からしばし眺めたその舞台は、横⻑の空間を単に斜めから見た、という以上にわ たしの目には歪んで映ったが、巖谷國士氏は著書『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学 芸文庫) において、シュルレアリスムを現実と別個の非現実ではなく「超現実」、すなわち 「強度の現実」とした。それは例えば、「超スピード」がスピードの極まった先にあるようなもので (cf., 同書 pp.19-20)、サブテレニアンの舞台空間は、図面上だけで言えば7480×6180×2900 立方ミリメートルだが、それは “日常レベル” の現実に過ぎない。 演出の赤井康弘は、俳優の足運び、その一歩に対して、「舞台上には限界があるが、永遠に歩き続けるんじゃないか?  と感じさせなければならない。」
と指摘したが、観客にとって「永遠に歩き続けるんじゃないか?」という感覚はむしろ “畏 怖” に近くて、
「ほら、ここに『女の顔をした象と、空とぶライオン』がいるが、スーポーと私は以前、そいつに出っくわしはしないかとおびえたものだ。」(『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』p.72)
という記述もまた、アンドレ・ブルトンと彼の盟友、フィリップ・スーポーが試みた「自動記述」における未知の魅力的なものとの出会い、その一方で狂気へと近づいていく恐怖につ いて語ったものらしい(cf., 『シュルレアリスムとは何か』pp.52-60)。
ブルトンとスーポーは、例えば、V1、V2、V3...といった具合に自動記述のスピードを操作することで文学上の実験を行ったようだが (cf., 同書 pp.38-42)、「シュルレアリスム/宣 言」の上演時間も、当初の106分から今や70分前後にまで凝縮された。
巖谷氏の分析によれば、比較的遅いスピードで行われた自動記述では「ジュ (je = わたし)」や過去形が頻出するのに対し、速くするごとに時制は現在となり「わたし」も消える (cf., 同書 pp.42-51)。そして現れるのは「オン (on= 人々、だれか」という不定代名詞で、 「シュルレアリスム/宣言」におけるこうした “凝縮” も、「だれか」を顕現させるための過程だったのかも知れない。
「永遠に歩き続けるんじゃないか?」という感覚同様、「だれか」の “出現” の予感もまた、観客にとっては畏れに似ている。それは、「超現実」と現実とが連続していることを知 ったわたしたちにとって、舞台上と現実もまた地続きであることは自明だからで、「だれか」もまた「わたし」を延⻑した先に立っている。「シュルレアリスム/宣言」の、あからさまなスラッシュ (/) はおそらく皮肉なのだろう、舞台上の事象は、そのまま警告となって “現実” のわたしたちをおびやかす。芸術作品における戦慄の心地とは、そのようなものなのではないか。
(注 タイトルは『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』p.171 による。)

(劇評家/ライター 平岡希望)

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