『振り向いた水平線上から帰るべき陸地が消えた時、人ははじめて未知の自由を得る。―― 「抵抗の詩人リーディング2 帰郷ノート」に寄せて』/ 平岡希望(劇評家/ライター)
「樹の幹の内部をくりぬき、スリット(細長い切り口)を刻み、やはり木製のバチで太鼓のように叩く。叩くわずかな位置のちがいで、樹の胎内をくぐり抜けて響く音程や音色は微妙な変異をみせる。おそらくは、汀に流れ着いた、すでになかば空洞化した大きな流木を水平線に向かってそのまま叩くことで異界の声を聴こうとした人間の原初的な身振りが、こうした楽器を製作することになった無数の褐色の手の背後に隠れている思考と肉体の記憶なのだろう。(……)それはまさに群島の楽器だった。」
(今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社, p.436)
凪いだ夜の海のように墨色の舞台中央、やや下手前寄りに転がったスツールは原初的なスリット・ドラム、あるいはスリット・ゴングみたいだ。その傍らに佇んでいるのは葉月で、彼女の背後、足元、そして上手の壁には赤緑オレンジのテープが5本、流れ星のごとく走っているが、そこに水平線を引きなおすかのように、田村が下手から上手角へと進む。奥の壁と葉月に挟まれた “水路” を切り裂く彼が掲げた右腕は、帆のようでもあり、
「ローマ軍がエルサレムの市を占領したとき、剣によって命果てることを悟った大司教は、聖所の鍵を神に返しておきたいと願った。彼が鍵束を天にむかって投げると、神の手がそれを受けとめた。」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス, アドルフォ・ビオイ=カサーレス 著, 柳瀬尚紀 訳『ボルヘス怪奇譚集』河出文庫, p.86)
鍵束を天に投げ返すようでもあって、その航路は壁の赤いテープと鋭角を成す。下手から上手角へ進む田村をいざなう風のように、
金子:
そしてそこで、疲れを知らぬある思想の香気に育まれて、私は風を養っていた、私は怪物どもを解き放っていた、(……)私が常にもっている、キジバトとサヴァンナの クローヴァーの流れが昇ってくるのを聞いていた。
(エメ・セゼール 著, 砂野幸稔 訳「帰郷ノート」『帰郷ノート/植民地主義論』平凡社ライブラリー, pp.27-28。以降、『帰郷ノート』についてはページ数のみを記載する)
最前から流れていたのは金子の声だ。彼の「キジバト」とともに羽を広げるように葉月が開いた台本、そのえぐれた輪郭は入江みたいで、
葉月:
暁の果てに、脆い入江から芽生える、腹を空かした アンティル諸島、疱瘡であばただらけのアンティル諸島、 アルコールに爆砕され、この湾の泥の中に座礁し、この不吉に座礁した町の埃の中に座礁したアンティル諸島。
(p.28)
葉月の声の谺(エコー)として、上手から田村の「アンティル諸島…?」というつぶやきが重なる。
「グリッサンはここで、群島における声の運搬者が、『物語の混淆』を維持しながら進められる新しい伝承の回路の創造であり、そこで語り部から語り部へと継承される物語が、『谺(エコー)』の音響的な機能を宿していることを語る。そして自らが谺をうみだす反響板であるかぎり、すでに権威的に語る『主体』の名前はなかば消滅する。
(……)
ここでいう『匿名の戦略』とは、すなわち集団に統一的な『声』を与えるための方法論である。集団が共有する心性が、ひとつの響きを与えられ、語り部のなかに谺するのである。(……)この『声を与え』『声を谺させる』者としての語り部の集合的な立場は、現代のカリブ海の詩人たちを突き動かす、啓示的な真実だった。」
(『群島-世界論』p.184)
そもそも『帰郷ノート』において、詩世界の産声として発せられた「暁の果てに……」(p.27)は、残響のごとく徐々に遠ざかりながらも、
「夜のダ・カポ
ダ・カポのダ・カポ
噴火のダ・カポ」
(高柳重信 作, 小澤實 選『近現代俳句』河出文庫, p.156)
「『ダ・カポ』は音楽の反復記号、楽曲を最初に戻って繰り返し演奏せよの意。この音が繰り返され、不穏な気分が醸される。火口の奥の溶岩がこんな音を立てていそう。」
(選者・小澤氏による鑑賞, 同)
「火口の奥の溶岩」のごとく低く谺し続けるのだが、それに加えて、
葉月:
暁の果てに、この無気力な町と、そのレプラの、衰弱の、飢餓の、谷底にうずくまった恐怖の、木々に隠れた恐怖の、土の中に穿たれた恐怖の、空を漂う恐怖の、堆積した恐怖の彼岸と、その苦悩の噴気孔。
(p.31)
畳みかけるような語の羅列がスネアドラムめいたリズムをも刻む。そこには、
「(……)
八番目に坐っているのが(引用注:蚊に)刺されて、『アイ』と言った。
『アハルガナー、どうしたのです。何かが刺したのですか』とアハルプーが尋ねた。
九番目に坐っているのが刺されて、『アイ』と言った。
『チャミアバック、どうしたのですか』とアハルガナーが尋ねた。
(……)
十四番目に坐っているのが刺されて、『アイ』と言った。
『何が刺したんだい、キクリスカック』とキクレーが言った。
こうして、みんなが、次から次へと、おたがいにその名前を呼びあっていったから、部屋の隅に坐っていた者の名前がみんなわかってしまった。」
(A・レシーノス 原訳, 林屋永吉 訳『マヤ神話 ポポル・ヴフ』中公文庫, pp.174-175)
神話的な反復の構造も反響しているのかもしれないが、ところで、上の挿話が「口から口へと語り伝えられた」(同書, pp.27-28)とき、語り部たちは声色でも変えながらこのやりとりを “上演” したのだろうか。
「かつて、この話が焚火のまわりで、あるいは雨の日の小屋の中で、蜒々と語られた時、この話はもっと錯綜し、混乱し、語り手は途中でたびたび言いよどんだことだろう。筋を離れ、聞き手に助けられ、またとまどい、新しい部分を付けたし、聞いている子供の名前をこっそり物語にすべりこませ、大団円までの遠い道をのんびりと辿りつづけた。書物になった物語にはその時間の長さがない。文字は話し言葉に較べれば、痩せて、ふくらみにとぼしく、語られる一瞬ごとの喜びよりは全体の構成や矛盾の根絶にばかり意を注ぐ冷たい伝達法だ。ただ読むのを聞くのとパフォーマンスとして展開されるのを受け止めるのとでは、聞き手の姿勢がまるで違う。」
(池澤夏樹『夏の朝の成層圈』中公文庫,p.159)
詩人の頭蓋で肉声として谺していたはずの言葉に、再び血を通わすこと。それが前回の「抵抗の詩人リーディング」、および「抵抗の詩人リーディング2 帰郷ノート」で演出家・赤井が試みたことなのだろう。俳優たちの身体は「谺をうみだす反響板」として、声だけでなく、
「歩行は、だれかに追いかけられたり、追いかけさせたりしながら、環境を動的に組織化し、一連の交話的なトポスの数々をつくりだしてゆく。そうして、コミュニケーションを確立しようとするこの交話機能が、すでに小鳥たちのさえずり言葉の特徴をなし、おなじように、『子どもたちの習得する最初の言語機能』をなしているのなら、こうした歩行が、だれかに何かを伝えようと声をかけるのに先立って、あるいはそれと同時に、『もし、もし!』と呼びかわしあうこだまの迷宮のなか、跳びはねたり、四つ足で歩いたり、ある時にはゆっくりと、またある時には足どり軽く、踊ったり、散歩したりしていても不思議はないはずだ。」
(ミシェル・ド・セルトー 著,山田登世子 訳『日常的実践のポイエティーク』ちくま学芸文庫,pp.248-249)
その身ぶりや足どりによっても「呼びかわしあうこだまの迷宮」を形作っていて、
田村:
出発する。
ハイエナ/人間がいるので、豹/人間がいるので、私はユダヤ/人間になるだろう
カフィル/人間に
カルカッタ/の/ヒンドゥー/人間に
投票/しない/ハーレム/の/人間に
(p.43)
葉月:
飢餓/人間、侮辱/人間、拷問/人間、いつでもそいつをつかまえてぶちのめし、殺すことができた ―― ほんとうに殺すのだ ――、誰に対するどんな説明も、誰に対するどんな申し開きも求められることなく
ユダヤ/人間
ポグロム/人間
犬っころ
物乞
(pp.43-44)
続けざまに発せられる「/人間」、そして「物乞」の響きとともに倒れ込んだ金子の姿が、私の脳裏に次の詩を谺させた。
「人間-動物でいるのは過酷。皮肉をいおうとしているわけじゃない。わたしたちは、たしかにそう扱われているから。
動物の権利のアクティビストは、汚染から、亀を全力で助けようとする。
人権のアクティビストは、不正義から、人々を懸命に助けようとする。
ガザに生まれること。それがどこに属するのか、わたしには見当もつかない。」
(アリア・カッサーブ 作, 松下新土, 片山亜紀 訳「人間-動物の日記」『現代詩手帖 2024年5月号 【特集】パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く』思潮社, p.26)
「『人間-動物の日記』の中で、彼女は、じぶん自身を『この人間-動物(This human-animal)』と呼ぶ。侮蔑の言葉として、虐殺を正当化する文脈で発せられた『人間‐動物』という言葉を、アリアはむしろ、全身で受けとめる。」
(訳者・松下氏による解題, p.29)
「私は受け入れる……私は受け入れる……すべて、全面的に…… 」(p.94)という葉月の呟きには、しかし疑問符の響きがあった。それは直前の金子の「私はもはや怒りもなく受け入れるひとりの人間にすぎない /(その心の中にはもはや巨大な、燃え立つ愛しかない)」(同)の勢いとは対照的だったが、その彼は、
葉月:
私は受け入れる。私は受け入れる。
そして、鞭打たれて『お赦しを、旦那様』と言うニグロ
そして、合法的な二十九回の鞭打ち
(p.95)
続く葉月の台詞とオーバーラップするように「お赦しを、旦那様!」と絶叫した。倒れ込んだ金子の左手首を踏みつけ、「合法的な二十九回の鞭打ち」を執行する “旦那様”(田村)が振るっているのは黒い折りたたみ傘のようだが、伸ばされ、さらに首元へ圧し当てられたそれは、
「一日が過ぎるたびに、不公平がひとつ行われるたびに、警官の棍棒が振り下ろされるたびに、労働者の要求が血の海に沈められるたびに、醜聞がもみ消されるたびに、討伐遠征が行われるたびに、共和国機動隊の装甲車、警官、自警団員が現れるたびに、われわれは失われた古い諸社会のかけがえのなさを感じさせられる。」
(「植民地主義論」『帰郷ノート/植民地主義論』p.149)
「デレク・ウォルコットがいうように、詩が大陸から切断された島であるなら、無数の詩の言葉を紡ぎ出す言語、すなわち詩人のもつ『薄暗い、宿命的な』舌とは、そのまま群島にほかならない。離れつつ、結びあう。記録された文字ではなく、ダイアレクトで染まった声の痕跡をつねに残してゆく。ユートピアが果てるところに浮上する。死者たちが出遭う界面に生まれ出る。陸と海を、動と不動を、同一性と差異を、いつでも反転させる……。」
(『群島-世界論』p.452)
「拷問台/鞭打ち台/頭締め」(p.96)という葉月の声を背に、“詩人” の舌骨を砕く「警官の棍棒」と化した。しかし、
「口じゅうが血で溢れても詩人の声は窒息しない」
(ハイナー・ミュラー 作, 岩淵達治, 谷川道子 訳「解剖タイタス ローマの没落──シェイクスピア・コメンタール」『ハムレットマシーン ―― シェイクスピア・ファクトリー[ハイナー・ミュラー・テクスト集 1]』未來社,p.74)
己の右手を見ながら、「ぼってりとした泥の中で足を踏んばる。」(p.97)と洩らした田村の声に、低い平坦な調子で「踏んばる。」と応えたのは金子で、ゆっくりと立ち上がって上手から下手へ向かう彼の口から再び詩句が発せられる。
金子:
海のかさぶたのような島々
傷の明証のような島々
パン屑のような島々
形のない島々
(……)
おお、死よ、お前のぬかるむ沼を!
難破よ、お前の残骸の地獄を! 私は受け入れる!
(pp.98-99)
「群島の言語 ――。そうした新たな名辞をここで提示したい誘惑に私はかられる。『大陸』の原理が抑圧する言語のひとつは国家的枠組みを欠いたダイアレクトという消えかける地方言語であり、もうひとつがピジン・クレオールというどこにもネイティヴな帰属を持たない浮遊する混淆言語である。そうした大陸言語の抑圧のもとに上書きされて見えなくなっていたくぐもった異語の肌理が、いま群島のヴィジョンのなかで浮上しつつあるとはいえないだろうか?」
(『群島-世界論』p.335)
「要するに、決定的で神聖なものと見なされた台本に戻るのではなく、何よりも重要なのは、台本への演劇の従属を断ち切り、そして身振りと思考との途上にある一種の唯一の言語の概念を再び見出すことである。
この言語は、対話形式の言葉による表現の可能性に対立する可能性、動的表現による、ならびに空間における可能性によってしか定義することはできない。そして演劇が言葉からまだ奪い取ることができるもの、それは語の外への拡大の、空間における発展の、感受性に対する解離的で振動的なプロットの可能性である。まさにここに介入するのはひとつの語の抑揚と特殊な発音である。」
(アントナン・アルトー 著, 鈴木創士 訳「残酷の演劇(第一宣言)」『演劇とその分身』河出文庫, p.144)
そこに「受け入れる?」と、やはり疑問符まじりの調子で谺したのは葉月の声で、「ヨーロッパは何世紀にもわたってわれわれに嘘を詰め込み、悪臭で膨れ上がらせたのだと、」(p.102)の「悪臭」を「アクシュウ」と片言めいて発音した田村は、思い返してみれば「フ/ロリダ」「ア/フリ/カ」(pp.49-50)みたいに、国土や大陸に音の楔を打ちこんでいた。こうした「ひとつの語の抑揚と特殊な発音」が「くぐもった異語の肌理」を再びもたらし、この『帰郷ノート』自体、 セゼールの叫びである “Cahier d'un retour au pays natal” が、砂野氏という “語り部” によって翻訳された「消えかける地方言語」であることを思い出させる。演劇とは、
「ヨーロッパの植民者たちは、大陸から船出して未知の島へとたどりつき、上陸してその汀の砂に征服旗をたて、彼らの名と王や女王の名を砂の上に刻み、その名は永遠のものとなった。群島の詩人たちは、西インドから、インドから、東アジアから、アフリカから彼らの群島の汀へと漂着し、トネリコの杖かモクマオウの杖を持って砂上に名を刻んだが、海はその痕跡をたちまち洗い流していった。だが、この書いては抹消されるという出来事が、書かれた歴史の不在をもたらし、逆に群島人たちの身体の内部に書きとめられた関係性の記憶を守りぬくことに貢献した。その豊かな記憶の声は、いまも汀の砂に刻まれつづけている。波がそれを洗おうとも、誰かがその無数の名前の跡を上書きし、次の者へと伝達する。潮の満ち干は、この間欠的な永遠の記憶継承運動のリズムである。」
(『群島-世界論』p.454)
「台本と書かれた詩というこの迷信と手を切らねばならない。書かれた詩は一度は価値があるが、続いてそれを破壊すべきである。死んだ詩人たちは他の者たちに席を譲るべきだ。そしてそれがどんなに美しく価値があろうと、すでに為されたことを前にした崇拝は、(……)要するにわれわれが隠れている力との接触をもつことを妨げるのだということをわれわれはもうわかっていいはずである。(……)同じくある台本の詩的効力も尽き果てるのだが、尽き果てる速度が最も遅いのが演劇のポエジーとその効力であり、それは身振りをつけられ発声されるものの活動を受け入れ、けっして二度と繰り返されないからである。」
(「傑作と縁を切る」『演劇とその分身』 p.127)
紙片=詩片を1枚ずつ火にくべながら、時にその眩さに目を焼かれつつも、舞台という「汀の砂」に詩句を書きとめ続ける営為なのではないか。だとすれば私たち観客の仕事は、ひととき身を寄せ合って陸地を形作り、舞台との間に海岸線を生じさせることであり、 高みの見物はただ、舞い上げられた灰にのみ許されているのだろう。
田村:
昇れ、鳩よ
昇れ
昇れ
昇れ
私はお前についていく、祖先から受け継いだ私の白い角膜に焼きついたお前に。
(p.115)
「わたしは誰のもとにも戻りたくない。どの国にも帰りたくない。
この長い不在の後では、ただ自分の言語に戻りたいだけだ、鳩の鳴声のはての。」
(マフムード・ダルウィーシュ 作, 四方田犬彦 訳「壁に描く」『パレスチナ詩集』ちくま文庫, p.117)
もやいを解き、サブテレニアンという小島から「鳩の鳴声のはての」、あるいは「暁の果て」の「自分の言語」へふたたび出航した私たちもまた、今や群島の一部を成している。〈了〉





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